「水平線の挿話」

「水平線の挿話」(「準備室」寄稿作品・2009年)

 1

 その日、灰に染まった東京の空から、訥々と雨が降り始めたところだった。

 鉄筋コンクリートの構造に雨が伝い、雨どいに錆色の水が伝うのを尻目に見ながら、キョウはこっそりと旧部室棟の戸を潜った。
 築何十年とも知れない旧部室棟は、老朽化のためもう使われていない。長く勤める教師が語るところによれば、時代が平成となるかならないかの頃に建造されて、それ以来補修をしつつ騙し騙し使ってきていたという。だが、それももう昔。キョウがこの学校に入るよりも前の話だ。
 使われなくなって年月が経ち、それによって幾層にも重なった埃。それを踏みしめ、キョウは息を潜めて廊下を行く。ひび割れた樹脂の床と彼の靴との間で、埃と砂の混合物が磨り減る音を立てた。
 彼が旧部室棟を訪れたのは、決して気まぐれなどではない。彼の歩みは静かながらも早足で、迷うことなく廊下を進んだ。息もかすかに上がっていた。
「入るよ」
 キョウは、吹奏楽部のプレートの前で声を掛けた。
「どうぞ」
 引き戸の向こうから、涼やかな声がそれに応えた。キョウは一つ深呼吸をした後、引き戸にゆっくりと手をかけた。
「こんにちは。……タマリ」
「こんにちは、キョウくん」
 白く濁って見えなくなった窓を背景に、制服姿の女学生が、クッションのパンクしたパイプ椅子に座っていた。赤くてフレームの厚い眼鏡に、一つに縛られた長い黒髪。いつもと同じ彼女と、その光景に、キョウははにかんだような笑顔を見せた。タマリと呼ばれた女生徒は、それに嬉しそうな顔を見せ、首をかしげる。

 キョウが彼女と出逢ったのは一週間くらい前の話だ。
 掃除当番でゴミを捨てに行った彼は、その帰り道にふと旧部室棟に目を留めた。普段は通り過ぎるだけの背景であるそれが、その日は無性に気になったのだ。好奇心に駆られた彼が試しに戸を開けようとしてみると、戸はすんなりと開いた。鍵が掛かっている筈なのに、と思いながら彼が旧部室棟に足を踏み入れると、床には先客を示す足跡が点々と付いていた。その足跡は、散々蛇行した末に吹奏楽部の部室へ続いていた。
 その日も、彼女は同じように、元吹奏楽部の部室でパイプ椅子に座っていた。彼女はぼんやりとしていたらしく、彼がその部屋に入ってから、近づくまで気付く様子もなかった。声を掛けられた彼女は驚いたように振り向いたときのことを、キョウはまだはっきり覚えている。
 後になってみれば、旧部室棟が気になった理由は簡単だった。タマリが吹奏楽部室の窓を換気に開けていたらしい。

 彼はそれから、度々彼女に逢いに来るようになった。彼女はいつでもこの部屋に居て、ぼんやりしているか、本を読んでいたから、逢いたいと思ったらいつでも逢うことができた。キョウは彼女に、どうしていつでもここにいるのか問いかけたが、彼女は「そうかもね」とはぐらかす。
 彼女はキョウと同じ学校の制服を着ているものの、授業に出ている様子はない。まるで学校に棲み付いた幽霊か何かみたいだ、とキョウが冗談めかして言ったこともある。そのとき、タマリは黙って笑顔を浮かべたまま、否定も肯定もしなかったが、その代わりに「幽霊だったら、嬉しい?」とだけ聞き返した。
 その質問には否と答えたキョウだったが、本当に幽霊だったりするのだろうか、とも時々思う。思いながらも、彼女のスカートの下から覗くすらっとした足とハイソックスを見ていると、別にそんなこともないんじゃないか、という気にさせられる。幽霊にしては、少し儚さが足りない。足も生えている。

 二人が逢って何をするかと言っても、大したことをするわけでもない。タマリは彼がいようといまいとお構いなしに、隙さえあればどこからともなく取り出した本を読んでいるし、キョウも部屋の隅で昼寝していたりする。家に帰っても居場所はなく、街を出歩くには金がなく、それでもどこか居場所が欲しかった彼は、暇があればずっとここに入り浸るようになった。
 時たま話す内容も、友人から聞いたつまらない話や、流行の小説や映画、芸能人の話といったものばかり。最初のうちは話題を切り出すのに困ったものだが、タマリは多少無茶な振りでもできるだけ真摯に答えてくれた。
 一方の彼女のほうからはあまり積極的に話を切り出してはくれないが、読んでいる小説を聞くと、その話をしてくれることがあった。彼女はどこか退廃的な趣味の持ち主で、ハードボイルドな探偵小説を好んで読んでいる節があった。

 2

 雨脚が段々と強くなって、大雨に変わろうとしている音を聞きながら、キョウはタマリに聞いた。
「傘、持ってる?」
 タマリは読んでいた本からゆっくりと顔を上げると、真っ白に濁った窓を射通さんばかりに見つめて、
「持ってる」とだけ答えた。
「どこに?」
 バックパックと一緒になって置かれた自分の黒い傘を見ながら、キョウは言った。タマリの荷物は、この部屋のどこにあるようにも見えない。本一冊だけ、後は身一つで、彼女はここに居るように見える。
「秘密」
「校舎かな」
 それなら、一応、あるということになる。キョウが推測を口にすると、タマリは本を閉じて首をかしげてしばらく考え、
「うん。教室に」
 成る程。キョウは納得して頷いた。教室に荷物を置きっぱなしにしているから、いつも身一つなのか。
「教室取りに行くの、濡れるよ。雨凄い」
「そうだね」
 他人事とでも言わんばかりに、タマリは言った。持っていた本はいつの間にかに片付けられて、どこかに消えていた。彼女はパイプ椅子から腰を上げて、窓を少しだけ開けてみる。
「凄い」
 キョウにはきちんと聞こえていたが、実際にそう言ったのか、確証はもてない程度だった。というのも、タマリが開けた窓から風と雨が吹き込み、それとともに突風が室内に吹き込んだからだった。
「うん。……凄いな」
 自身無げに答えたキョウの台詞に、タマリはにっこりと笑って賛同した。
「傘あってもダメそうだね」
「かもな」
 確かにそうだ。キョウは息をもらすように笑い、途方にくれた。この雨では、濡れずして帰るのは難しい。
「帰りたくないな、これじゃ」
「風邪引いちゃうね」
 くすくすと笑うタマリに、キョウは頷く。
「このままここに泊まっちゃう?」
 タマリは悪戯っぽく笑いなおして言った。まるで、そうして欲しいとでも言うような風で。
「え、あ……」
「冗談」キョウが何か言うよりも前に、タマリはそう言って制した。
「雨、今日、止まないって聞いたけど。今のうちに帰ったほうがいいよ。もっと強くなるかも」
 タマリはもう一度、窓を薄く開ける。外から差し込む僅かに強い光と、風が、彼女の頬を濡らした。
「そうだな」
「うん。そうしなよ。私ももう少ししたら帰るから」
 もう少ししたら。キョウはその台詞を反芻してから、
「一緒に帰ろう」とだけ答えた。タマリは驚いて目を丸くし、「いいの?」と聞きかえす。
「もちろん。傘は一本しかないけど」
 示した黒い長傘は、もちろん、二人が入る大きさではない。キョウは照れくさそうな顔をして、視線を泳がせた。
「じゃあ、校舎まで入れてってもらおうかな。私、教室に傘あるから、そこまで」
 彼女は立ち上がってスカートの埃を叩き、赤い眼鏡を両手でいじって恥ずかしそうに笑った。

 二人は旧部室棟の玄関から顔を出し、その雨脚の強さに顔を見合わせた。
「も少し待つ? もしかしたら少しは止む、……かも」
 キョウはそう言ったものの、タマリは静かに首を振った。
「強くなるよ。絶対」
 言い切った彼女に有無を言わせないものを感じて、キョウは渋々頷いた。
「それじゃあ行こうか」
 ジャンプ傘が勢いよく開く。二人はその身を寄せて中に納まり、雨の中へ一歩踏み出した。
「肩濡れてる? だろ」
「二人ともね」
 どちらからということもなく、彼らは小走りになり、校舎までのそれほど長くない距離を駆け抜けた。

 真新しい校舎は、最新鋭の技術を惜しげもなく投入した豪勢な青銀のガラス張りだ。昇降口を通りながら、旧部室棟と比べると、まるで遠い時間を旅行してきたかのようだ、とキョウは思った。片や旧世紀の遺物、片や最新設備。旧部室棟には下駄箱があったが、こちらにはない。土足でいいから、いらない。その代わり、何体もの清掃ヒューマノイドが壁から電気を吸っていた。
 正面の壁に飾られた黄金色の学生ヒューマノイドが、埃の被った電源コードをその身に巻きつかせて、キョウを睨みつけている。薄暗がりの中でも美しく光っているが、趣味がいいとは到底言えない。電源を入れれば、今でもこれは動くのだそうだ。教師はそう言っていたが、キョウは動いているのを見たことがない。

 キョウがその物言わぬヒューマノイドを見ながら傘の滴を払っていると、
「私、少し時間掛かるから」
 とタマリが切り出し、
「先帰ってていいよ」と笑った。彼女のブラウスがうっすらと透けているのが見えて、キョウは思わず見入って、それから慌てて視線を反らした。
「いいよ、待ってる」
 キョウがそう返すと、彼女は困ったように笑った。どうしようか考えて、それから向き直り、
「付いてくる?」とだけ言った。
 彼女はにっこりと笑って、少年から後ろ向きに一歩、距離を置いた。
「じゃあ」と少年は笑い、一歩その距離を縮めた。
「キョウくんの教室って、どこ?」
 そういえば教えていなかったっけ、と思いながら、キョウは答えた。
「それじゃあ、隣、かな」
 タマリはちらりとキョウを振り返り、笑った。キョウは、それがとても寂しそうに思えた。

 彼女の教室は、二階の一番隅にあった。教室にはもう誰もおらず、ただ戸締りはされていなかった。

「なんか、思い出すなあ」
 タマリはそんなことを呟きながら、教室の中を見回す。窓が遮光モードになっており、薄暗い室内。外の雨音だけが大きく響いている。キョウは、彼女の仕草に違和感を感じながらも、
「思い出すって?」と素直に疑問を呈した。
「んとね」
 タマリは勿体つけて笑いながら、棚の認証パネルにそっと手を触れた。かすかな動作音を立てて戸のひとつが開く。
「昔の話。こんな大雨の日に、こんな薄暗い部屋で、……学校じゃなかったけどね」
 彼女が戸棚の奥に手を突っ込み、傘を引っ張り出す。棚に入っていたとは思えない長さの傘がぬっと現れた。
「小説? 映画、かな?」
「ん、……そんなとこ」
 傘は、持ち主の眼鏡と同じで、真っ赤だった。キョウは、ちょっと趣味が悪いかもと思いながら、首を傾げる。
「ずっと昔、何十年か前の話……を題材にした、映画なんだけれどね」
 彼女はそう言って、傘先で床を叩いた。音は、雨音でかき消されて聞こえなかった。彼女がどこか懐かしそうに語るのを見て、
「なんて映画?」と、キョウは聞いた。
「よく覚えてない。見たの、ずっと前だから」
「どんな話だったんだ?」
「うん。……ちょっと長くなるけど、聞いてくれる?」
 タマリは目を輝かせて、キョウの瞳を覗き込んだ。キョウは唾を嚥下してから、
「ああ、うん」
 とだけ答えた。

 3

「ハル・ヒューマノイドっていう、昔のヒューマノイドの話なんだ」
 タマリは手近な椅子に座り、楽しそうに笑った。キョウも椅子を引く。
「ハルってのは、キョウくんも知ってるかな。万能線材。洗う洗剤じゃなくて、線の材料って書いて、線材ね。信号を与える限り、何にでも姿を変える夢の材料、それが『ハル』」
「名前だけは……うん。病院とかで使われてる奴だよね。応急処置とか」
「そうそう。凄いものなんだよ、あれ」
 キョウの疑問にタマリはそう付け加えたが、何事が凄いのかいまいちピンとこなかったキョウの様子を見て、少し拗ねたように口を尖らせた。
「力を加えてる間だけは、何にでもなっちゃうの。柔らかいものから、硬いものまで。形も変わるし。凄いんだよ。今でもそんな材料って他にないし」
 そういえばそうかも、とキョウは思ったが、何も言わなかった。
「細かい幾つもの線で出来てて、見た目は水みたいなものなんだって。それが繋がったり、繋がらなかったり、硬くなったり柔らかくなったり。それで何か性質が変わるらしいの」
 彼女はそんな理屈を楽しそうに説明してから、
「それを、ある博士がヒューマノイドに応用した。それがハル・ヒューマノイド」と付け加えた。
「ってことは、何にでも変化できるヒューマノイド?」
 キョウは、そんな話をいつか聞いたことがあった。かつて「万能人形」として研究され、実用化はされたものの、その制御の難しさと採算度外視の設計から、結局他の素材のヒューマノイドにその主流を奪われた遺物。最近ようやくまた研究が注目されるようになったと、テレビで伝えていた。
「うん。そう。小さい子から、大人、男性も、女性も、誰にでも……無機物みたいなものでさえ」と、タマリは頷いて、
「何十年も前、ハルがまだ普及する前に、どれくらい作られたのかはわからないけれど、ちょっとだけ、作られたの。その一人……一つ、かな。そのヒューマノイドの、お話」
 彼女は射通すようにキョウを見て、視線が合うと、恥ずかしそうに笑った。

 そのヒューマノイドは、端的に言えば違法な代物だった。そんなところから、タマリは語り始めた。
「ヒューマノイドが登録制で、監督官が必要なのは、キョウくんも習ったと思うんだけど、そのヒューマノイドはそのどちらも破っていたの」
「つまり、野良ってこと?」
 今でも時折、野良ヒューマノイドの話は聞いていた。ヒューマノイド登録の要件が緩和されたとかで、昔よりは減ったらしいが、それでもまだ一年に数度はニュースを流れる。
「しかも、そのヒューマノイド……心は女の子として構築されたから、彼女ね。彼女は、ロボット原則さえ切り離されていた」
「それってつまり、人を傷つけられるヒューマノイド」
 キョウの応えに、タマリは神妙に頷いた。野良ヒューマノイドのほとんどは、害はない。しかしながら、時たまその中に逸脱したものも現れ、ニュースを賑わす。それがロボット原則リミッターの解除、あるいはもともと実装していないヒューマノイドの存在だ。
「そう。彼女は、そんな人格ヒューマノイドだったの」
 一般に、人格を持たせた機械類は、相手が何であろうと能動的な破壊活動を禁じられている。例え自分が傷つけられ破壊されていようと、あるいは持ち主が目の前で殺されようと、一切の攻撃行動を自粛しているのだ。
 それは、行きすぎな面ももちろんある。自衛を一切できないヒューマノイドは、時折破壊されるし、ヒューマノイドが持ち主を守らなかったことに対しての批判も、たびたびある。
「彼女は、生まれて……作られて、かな。気付いたときには、スラムで放置されていたの。当然、そんなところにいる野良ヒューマノイドなんてすぐに連れて行かれるものなのだけれど、彼女は自衛をしてしまった」
 タマリは静かに語り、
「それはつまり、……誰かを?」という問い掛けには、答えなかった。
「彼女はすぐに捕まってね。で、破壊されそうになったの。危ないもんね。しょうがないよ。……でも、彼女を見て、引き取ると決めた人が居た。その人のお陰で、彼女は何とか破壊されなくて済んだ」

 そこまで語って、タマリはキョウに向かって首をかしげた。
「……ここまでにしよっか? ごめんね、退屈な話で」
 キョウは少し考えて、
「いいよ、続けて」と答えたが、
「うん。また明日にしようよ。今しなきゃいけない話じゃ、ないから」
 そう答えが帰ってきて、タマリは席を立った。傘を持ち上げて見せて、悪戯っぽく笑い、
「じゃ、行こうか」と、キョウを急かした。

 彼女の帰り道は、キョウとは正反対の方向だったらしく、校門ですぐにわかれることになってしまった。
 キョウは何か言うべきかと少し悩んだが、結局何を言うべきかわからず、
「また明日」
「うん」
 それだけの対話で、彼女に手を振った。

 その夜、キョウがしたことといえば、自分の部屋でハル・ヒューマノイドについて調べたことだけだった。
 雨の強さもあって、キョウは寄り道一つせず、学校最寄の地下入口から、世田谷地下プレーンに潜った。
 彼の家は、世田谷地下プレーンの第三ガーデンにある。可変塗料で塗られた人工空の下に建つ一軒家だ。旧世紀には夢のような構造物だった時刻可変式の地下庭園も、今や老朽化の一途を辿り、静かに滅びを待つばかりの古めかしいものとなっている。
 天井プレートを眩しく思いながら、彼は色々と考えた。劣化したプレートは、夕暮れよりもさらに紅い色に染まっている。彼が道すがら考えたのは、今プレイしているゲームの戦略情報、来週発売のゲームを調べなければいけないこと、授業の内容を復習しなければならないこと、そしてタマリのこと。けれど、彼は家に辿り着くなり、すぐにそのほとんどを忘れてしまった。荷物を置き、吐いた息と共に、全て霧に還っていった。
 それでも、キョウはハル・ヒューマノイドを調べることだけは忘れなかった。ちくりとした胸の痛みの正体はわからなかったが、どうしても知っておかなければならないような気がしていた。
 端末から浮き上がった幾つかの半透明ウインドウを操作すれば、コンマ二秒でネットワークから応答が返ってくる。莫大な数の検索結果から端末が学習選択を行い、一般的な解説から論文までがリストアップされたが、そのほとんどは彼には理解のできない難解なものだった。
 その旨をコンピュータに改めて伝えると、幾つかの社会知識系事典だけを残して、他は取り下げられた。それらの事典に書かれていた内容を引用すれば、
『ハル。ツキミ科研で開発された医療用可塑性樹脂の一種で、信号に応じた硬度と粘度を発生させることが出来る性質のため、一時的な傷の封印などに用いられる』
『ハル・ヒューマノイド。正式にはハル・コアメタル・ヒューマノイド。ハルをメインフレームに採用し、ツキミ科研のドクター・シロガネの理論に基づくコアメタル初期化により、ハルの可塑性をヒューマノイド人格自身が操作できるようにした汎用ヒューマノイドの一種』
 こういった程度のことしか書いておらず、タマリの説明したことが、大雑把に、かつ小難しく書かれているだけだった。

 4

 翌日、キョウは授業が終わるなり、そそくさと旧部室棟へと向かった。
 高等数学を習ったはずの時間は良く覚えていないが、それは多分、この湿度のせいだろう、とキョウは思った。昨日の雨は一旦上がっているけれど、今日も空は暗い。旧部室棟の外壁に良く似た色が空一面に広がっていて、空気一面に昨日の雨がそのまま残っていた。
 旧部室棟の中は、あまり快適とは言えなかった。分厚いコンクリートに遮られた廊下には、湿った熱気が省みられることなく淀んでいる。埃とカビのかすかな匂いを感じながら、キョウは再び吹奏楽部のプレートを潜る。 

 タマリは、今日もパイプ椅子に座って本を読んでいた。
「今日は、雨降らないって」
 彼女は、そう言ってにっこり笑った。
「今にも降りそうな感じだけど」と、キョウが付け足すと、彼女はこくんと頷いた。
「梅雨だから」
 彼女は諦めの表情を隠すことなく、
「梅雨だから、しょうがないよね」と、言い直した。キョウもゆっくりと頷き返す。
「早く梅雨が明ければいいのに」
 キョウがそんなことを言うと、タマリは不思議そうな顔をしてこんなことを聞いた。
「雨、嫌い?」
「嫌いじゃないけど」言葉尻を濁して彼がそう答えると、
「けど?」タマリは悪戯っぽく笑って、その言葉を拾った。
 雨は、好きじゃない。外へ出るのにも傘を持たなくてはならないし、濡れた身体はすぐに風邪を引く。地下ガーデンには降らない雨。それは確かに一種の理想郷として建造された。そもそも、人の住まいというものは、雨と風から逃れるために生まれたものだ。
 けれど、嫌いじゃない。雨に濡れた空気の匂いは、乾ききった冬の空気より心地いい。音のカーテンが窓の外を覆うなら、その中で語られる沈黙が好きだ。そして、キョウは昨日のことを思い出した。
「雨は、嫌い?」タマリは問い掛けを繰り返した。
「……好きでもないよ」
 ようやく返った答えに、彼女は満足したように頷いた。
「私も」とだけ応えて、口の端だけで笑って見せた。
「意地悪な質問だったよね」
 タマリは心ここにあらずといった風にそんなことを言った。
「意地悪?」キョウがそう聞き返すと、タマリは頷くでもなく、ぼんやりとして見せてから、
「意地悪だよ。何かだから好き、何かだから嫌い。そんな、簡単に決められるような話ってさ。そんなにないよね」
 確かにそう、かもしれない。キョウは沈黙で返す。
「どんなに、好きでも。どんなに、嫌いでも。きっと、裏返しの一面があるし」
 歌うようにタマリは言ってのけ、「優柔不断だよね」と付け加えた。
 キョウは考える。こういうときに、なんて声を掛ければいいんだろうか。目の前に女の子が居て、その子は寂しそうに笑っている。
「そう、かも」
 彼は迎合の選択肢を選んだ。タマリはその様子を、じっと見てから、気を緩めて視線を外した。

 しばしの沈黙の後、キョウは訊ねた。
「昨日の話、さ」
 読書に戻っていたタマリは、まるでそのタイミングを予見していたかのように、丁寧な動作で本を畳む。
「昨日の話?」笑顔を作って、そう聞きなおす。
「映画の、話」
「うん」
 彼女の目が嬉しそうに輝いた。キョウが「続きが気になって」と付け加えると、
「有難う。それじゃあ、続きを話すよ。……寝ないでね」
 それから彼女は、「どこまで話したっけ」と首を捻った。

 違法のハル・ヒューマノイド。彼女を引き取ったのは、探偵家業を務める一人の男だった。
「その人は無口で無愛想だったけれど、とても優しい人だったの」
 タマリは、その男についてそんな風に語った。
「誰かを嫌いになること、何かを嫌いになること、傷つけること、裏切ること……そういうのが嫌だったし、そんな風に思うのが、彼は嫌だったの。だから、正直に生きて、正直に騙されて、ずっと損ばかりしてきた……そんな人だったの」
 愛しむように彼女は手元の本を撫で、「優柔不断だった、ってだけかもしれないけどね」と付け加えた。
「そんな彼だから、彼女……ハル・ヒューマノイドの、彼女を受け入れるのに、理由は必要なかったのかもしれないけど」
 そこまで言って、タマリはキョウの目をじっと見た。彼が頷いて先を望むのを待ってから、
「彼女の姿がね。彼の、死んだお姉さんに良く似ていたんだって」
 タマリは諦めたように笑いながら、「ハル・ヒューマノイドなんだから、幾らでも……顔も、背丈も、変えられたのに。そのときの姿は偶然だったのに」と言った。
「彼は、死んだお姉さんのことがとっても好きだったそうなの。好きって言っても、もちろん家族として、だけどね」
 キョウはそんな彼女の様子に、黙ったまま頷くことで応えた。
「そんな彼は、彼女にそのお姉さんの話を少しだけしたあと……お姉さんの形見を、一つ、彼女につけて見せた」
 本を撫でる手が浮き上がり、眼鏡を外す。赤いセルフレームがきらりと輝いた。「ちょうど、こんな感じの眼鏡」
「それを見て、満足したのかな。男は、それから一つ注文をした」
「注文?」繰り返されたキョウの言葉に、タマリは頷く。「そう、注文。約束して欲しいって」
「彼は、そのヒューマノイドにお姉さんの面影は感じていたけれど、お姉さんが帰ってきたなんて思えるほど、若くはなかった。代わりで居てくれなんて言えるほど、身勝手でもなかった。だから、彼女には『別な姿で居てくれないか』と頼んだの」
 タマリは再び眼鏡を掛けて、
「キョウくんは、どう思う?」と問いかけた。キョウが「どう、って……」とたじろぐと、彼女は満足げに笑った。
「男の人ってそうなのかな。なんか勝手だと思わない? 似てるから……って言っときながら、満足したら『もうならないでくれ』って。ホント、勝手だよ」
 タマリは、可愛らしく怒っている風に見せた。実際は、なんと思っているのだろうか。キョウは曖昧に頭を動かして、
「勝手……かな。うん。そうかも知れない」
「勝手だよ」
 ぴしゃりと言い放ち、タマリは続ける。「でも、彼女はそのままの姿で居続けることを、望んだ。彼女は気付いていたの……その人が、決して、お姉さんの姿を見ていたくない、とは思っていなかったこと。お姉さんの『姿』を見る目が、とても優しそうだったこと」
「でも、それって……」キョウは口を挟んだ。主人の命を重んずるべきヒューマノイドとしては、それは間違った選択だ。
「その人は優しかった。彼女の望みを、否定しなかった……もちろん、うんとも言わなかったんだけどね。勝手にしろ、って」
 そうして、探偵の男と、その姉によく似たヒューマノイドは、苦楽を共にすることになった。タマリはそんな風に説明して、しばらくの余韻を持たせた後、息をついた。
「結局、二人とも、身勝手だったのかもしれない」
 キョウは応えられなかった。その男は、そのヒューマノイドは、何を考えていただろう。どう思っていただろう。キョウには漠然とした想像しか出来なかった。
「わかんないよね。うん」
 そんな様子を見て、タマリは嬉しそうに何度か頷いた。
「わかんないんだ。私も」

 5

 帰りがけの誘いは、何の脈絡もなかった。
「そうそう。明日、暇?」
 キョウが目をぱちくりさせていると、タマリは「土曜。暇?」と付け加えて言い直した。
「暇っちゃ、暇だけど」そう答えが返って来ると、
「それじゃあさ、買い物に付き合ってもらえないかな?」と微笑んだ。
「別にいいけど」
 どぎまぎしながらキョウが答えるのに、彼女は満足げに頷いて見せた。
「良かった。一杯買うものがあってね、一人で行くの嫌だったんだ。荷物持ち宜しくね」
 さらっと吐かれたその台詞にキョウは顔をしかめた。「荷物持ちか」
「不満?」
 タマリは首をかしげて聞いたが、キョウは「いや……」と言葉を濁した。
「別にデートってことにしてもいいよ」と、タマリは笑って付け加える。
「荷物持ちでいいよ」
 キョウが強がってそんなことを言うと、「じゃあ、そういうことにしとくね」とタマリは笑って答えた。

 待ち合わせは、世田谷地下プレーンから程近く、大災禍の前まで、「東京タワー」と呼ばれていた場所。遥か空高くまでそびえる巨大な円柱の構造体の真下だ。
 天気のいい日には世田谷からも見ることが出来るこの建物は、世界初の対重力構造を採用した歴史的な建造物である、らしい。キョウは学校でそんな風に習ったが、物心付いたときから、それはそこにあった。何が凄いのか、実感はどうしても湧かない。
 石鹸の色をした艶のない外壁を背に、キョウは折り取った端末の画面を何度も確認する。タマリとの約束を記した画面は、まだ皓々と輝いており、十時二分前を明滅させている。土曜十時。日本タワー西南区画ハ、その入口前。
 約束を確かめてから、キョウは虚動ドアに映し出された文字を読み直す。人々が行き交うたびに存在確率の薄れるそのカーテンには『西南区画ハ』とゴシックで記されている。
「待った?」
 彼が振り向くと、そこにいたタマリは腕時計で時間を確認していた。
「ぴったりだね。遅れるかと思った」と笑って、彼女は手を差し伸べる。
「やあ」
 キョウは呟くようにそれだけ言って、緩慢な動作で右手を挙げた。
「待たせちゃった?」
 残念そうに手を引っ込めてから、タマリは聞いた。キョウは首を振って「そんなことはないけど」と答える。
「待たせちゃったみたいだね」と彼女は一人で頷いて、
「ごめんね。じゃあ、行こうか」
 キョウは頷いて、何も言わないで彼女の後を付いていった。
 彼女の私服姿を見るのは初めてだな。キョウが思っていたのは、そんなことだった。

 日本タワーの下層は、そのほとんどがテナントスペースになっており、巨大なマーケットを形成している。
 中でも西南区画は、かつて東京中に散っていた様々な大規模百貨店が、国策の元に国立法人に統合され、一つの巨大百貨店を名乗って収まっている。ある一定以上の品質を保証した百貨店独特の店舗形態が、国の補償の元に一種の歴史公園として保存されているのだ。
 その設備は、最新鋭のものを常に取り揃えることがもはや義務といっていい。国威を見せる場として作られたこの施設は、かつてこの国にあったどんな施設よりも掃き清められ、厳重な警備の元にあり、そして美しい顧客を求めていた。キョウは場違いなものを感じ、自然と恐縮する。
「キョウくん、あんまり来たことない?」
 そんな様子に気付いたのか、タマリは尋ねた。確かにキョウはあまりここに来たことはないが、タマリはそうでもないようだった。
「まあ、な」
 彼は言葉を濁したが、意図ははっきり伝わった。「うん。そんな気はしてたよ」とタマリは慰めたが、あまり効果はなかった。
「ぱぱっと買い物済ませてさ」
 キョウが思わず辺りを窺っている隣で、彼女は受付の端末を借り受け、幾つかの店に印を付けていた。
「お昼でも食べにいこ」
 言いながらタマリが見せた端末には、その最短ルートが表示されていた。数学教師が『このシステムは情報工学の粋』と言っていたのを思い出したが、キョウには何が凄いのか、よくわからない。ともあれ、買い物にあまり時間を掛けなければ、十三時を回る前に終わりそうだと表示が告げている。
「そうだな。早く済ませて……」と、そこまで言ってキョウはふと思いなおす。
「ゆっくりでも、いいが」
「優しいんだね」タマリはどこかトゲのある言葉で言い返した。

 キョウに配慮したのか、タマリの買い物はそう多くなかった。服を二着、バッグを買わず、それとヒューマノイド用の電池を一つ。
「ヒューマノイド、持ってるのか」
 タマリはその質問に、こくんと頷いて応えた。「一人、ね」
 荷物持ちと言っていたのに、結局タマリはキョウに何の荷物を持たせることもなかった。

 日本タワーの地下は、世田谷地下プレーンと同じように、地下庭園になっている。同じとは言っても、その技術力には天と地ほどの差があって、空は人工物であるとは思えないほど隅々まで青が行き渡り、自然風顔負けの爽やかな匂いに満ちている。
 そのほとんどは、広大な公園として解放されている。大災禍前の井の頭公園を意識して作られたというこの緑地公園は、上層に駅があるという交通の便のよさもあって、休日はいつでも家族連れや恋人達の姿を見ることができる。
「何か、……気恥ずかしいな」
 キョウは、天を映して真っ青に染まった池の水面を見ながら、そんなことを言った。
「恋人ばっかりだから?」タマリがじっと見る先には、ボートをこぐ若い男と、それを眺める若い女。ちょうど、二人と背格好も同じくらいだった。
「いや」
 否定はしたが、その先言葉は続かなかった。
「いいじゃない」タマリは悪戯っ子の笑顔を見せて、
「今だけ恋人ってことで」
 キョウは半笑いでその言葉を受け入れる。
「じゃあお弁当にしようか」キョウはその言葉に耳を疑ったが、同時に納得もできた。こんなところに昼食を取れる店などない。自販飛行機械くらいは飛んでいるけれど、食べ物を持ってこさせるには時間も金もそこそこ掛かる。
 二人はプラスチックのベンチを見つけてそこに座り込み、彼女は弁当を広げた。その弁当は小振りなものだったけれど、きちんと彼女の手作りだった。
「作ったの?」と、判っていながらキョウは尋ねた。彼女は恥ずかしそうに頷いて「見た目悪いけどね」などと誤魔化した。
「この前の、……映画。の話の続き、してもいい?」
 タマリは、ラップに包んだおにぎりを一つ手にとって、ポツリと呟いた。キョウが頷くと、彼女はそれを器用に開いた。
「うん。ありがと」
 彼女が礼を言った理由は良くわからなかったが、キョウは再び頷いて、おにぎりを一つ取る。
「それ梅干だからね」と彼女は言った。

「男が探偵をやっていたって話は、したよね」
 タマリはまず、そこから話を再開した。
「ヒューマノイドはみんな凄いけど、ハル・ヒューマノイドはもっと凄い情報処理機械なの」
 身体を変化させるのは見た目だけの問題ではなく、状況に応じた特別な形態に変化することもできる。
「お掃除ロボットに変化してみたり、会計をこなしてみたり」と、タマリは説明する。もちろん元々特化して作られたものには敵わないのだろうが、そういった有りようは、一人のヒューマノイドとしては、大変優秀だ。キョウは成る程と感心する。
「そんなだから、彼女は優秀な助手として、その人を影ながら支えた。彼が道を踏み外さないように、裏切られても助かるように、正直でいられるように。歪まないように」
 彼女はそう言って、水筒からお茶を注いだ。
「傲慢だったのかもしれないけど、彼女にはそれができるくらいの力があった。男は、じきに腕のいい探偵……言うなれば、正義の味方として名が知られるようになった」
 キョウが差し出されたお茶を受け取って、一口飲むのを確認してから、タマリは自分の分のお茶を注いだ。
「何年かして」
 タマリはそこで一旦区切った。お茶を一舐めして、
「男には、妻が出来て、子が出来た」
 キョウはふとタマリの瞳を覗き込んだ。不自然なまでに黒々とした瞳が、ぼんやりと空色の明かりを映している。
「彼女は自分のことのように、それを喜んだの。彼女にとっては、男の幸せだけが生きがいだったから。妻の仕事を手伝い、子供のお世話もした。一家の幸せのために、必死になって頑張った」
 突然タマリが立ち上がる。キョウがきょとんとしていると、「あそこに」
「ん?」キョウが彼女の視線を追うと、そこには休暇を過ごす一家の姿があった。
「あんな感じ。夫が居て、妻が居て、子供が居て、それを助けるメイドとしてのヒューマノイドが居て」
 草原で弁当を広げる一家。箸を持っているのは、夫と妻と子供だけ。一人だけ質素な服装の人物は、じっと黙ってレジャーマットの重石となっている。
「ちょっと似てるな?」
「……何が?」キョウは尋ねた。「あの男の子、キョウくんに似てる。やんちゃそうだけど、優しそう」
 顔をしかめる彼に対し、タマリは笑った。「冗談だよ」とフォローしてその場を収める。
「でも、よく見えるな」
 キョウはその男の子を凝視したが、あまりに遠すぎてよくわからない。
「うん。目はいいの」と、タマリは眼鏡を外した。「目、悪くないから。眼鏡掛けてるし、悪いと思ってた?」
「ああ」
「伊達眼鏡じゃあないんだけどね」
 くすくす笑う彼女は、そっとキョウの首に両手を差し伸べて、眼鏡を掛けてみる。
 あまりに突然で自然な成り行きに、一瞬だけぼんやりとしていたが、気付いたキョウは思わず眼鏡を振り払う。
「似合ってたのに。残念」
 眼鏡を外したままのタマリは、目を瞑ったままそんなことを言った。
 彼女はその先について語らなかった。キョウもあえて聞こうとは思わなかった。

 6

 週が開けて、月曜。相変わらずの雨が降りしきる中、キョウが登校すると、教室は一つの噂で持ちきりになっていた。
 曰く、先週末、とある教師が旧部室棟に不審者を見かけた、という。誰もおらず、開いていないはずの旧部室棟の玄関。それが閉まるのを見たのだという。教師は中に入ってその正体を探ったが、何者がそこに居たのかはわからなかった。
 この問題は速やかに報告され、旧部室棟の管理についての言及がなされた。老朽化していて危険の可能性があるのに、どうしてここまで放っておかれたのか。その責任はどこにあるのか。彼らの責任の押し付け合いはさておき、旧部室棟の対処はなされることとなった。
 誰が旧部室棟に居たのか。教室の話題はそればかりだった。ある友人はそれを泥棒だと断じたが、またある友人は幽霊だと笑った。キョウは内心の動揺を無理やり抑えながらも、興味がない風を装って、その場をそっと離れることにした。キョウはそれが誰なのか、もちろん知っていたが、言うつもりは少しだってなかった。
 じきに、担任が旧部室棟の不審者について告げた。不審者だけでなく、建物そのものも危険であるのだから、これまで同様近づかないように、と。淡々としたその口調は、増えてしまった厄介ごとに呆れかえっているような風だった。
 放課後にキョウが旧部室棟を尋ねると、担任が退屈そうに生徒をあしらっていた。旧部室棟の玄関には簡単な封がなされ、見るからに入れそうにはない。担任は群がる生徒を追い払ってから、キョウに気付いた。大きく溜息を付いた後、旧部室棟に用かどうか尋ねる。
「いえ、……別に」とキョウは誤魔化した。
 だが、教師は最初からそんな返事は聞くつもりがなかったらしい。不審者が現れたこと、建物が危険なこと、新しく鍵を掛けなおしたので、もう入ることもできないこと。一度伝えた事実を再び手早く伝え、キョウを追い払った。
 その日、キョウはタマリに会えなかった。

 火曜。キョウはタマリの教室へ行ってみた。遠巻きに見て、何度も教室の前を通り過ぎ、意を決して話しかける。
「タマリという娘、なんですけど」
 彼はそんな風に言ったが、クラスメイトであるはずの彼らは、そんな人は知らないと答えた。タマリの容姿について懇切丁寧に説明してみても、反応は返ってこない。違うクラスなんじゃないか、と彼らは結論付けた。
 キョウはわからなくなった。彼は考える。彼女は、嘘を付いたのだろうか。あの日、タマリは確かにこの教室に入ってあの赤い傘を持ち出したはずだ。教室のロッカーは生体認証パネルを利用しているから、他人のを開けることなどできるはずもない。
 彼女は授業に出ていないのだろうか。キョウはそう考えても見たが、それならかえって名前だけでも印象深いはずだ。真相を確かめるべく、そのクラスの担任の元を訪れた。結果は同じだった。タマリという人物は知らないし、そういった人相の生徒には覚えがない、と。
 放課後、彼は問い詰めるように旧部室棟へ向かった。旧部室棟の玄関には、昨日と違って誰もいなかった。だが、真新しい南京錠と鎖が、玄関を軽々しく封鎖していた。キョウは鎖を握って、しばらくしてからその手を離した。
 その日も、キョウはタマリに会えなかった。

 水曜。木曜。金曜。そしてまた月曜、火曜。日はゆっくりと過ぎていった。
 キョウは、授業中も、休み時間も、教室に居る間、ずっと窓の外ばかりを見ていた。
 彼の教室からは、旧部室棟は見えない。けれど、向こうの真っ黒な空から落ちた灰色の筋の幾つかは、コンクリートのあの古い建物に当たるだろう。そう思うと、窓から見える景色は酷くすさんだものに思えた。
 彼女は、どこにいるのだろう? 幾つもあったキョウの疑問は、たったひとつそれだけに集約されていった。

 7

 夏休みが段々と近づき、憂鬱な天気の中で期末考査が行われようとしているころ。教室の中には数式が浮かび、問題が滑空する。どうすれば点を取れるか、そんなことを教師は長々と語った。その時間に何か教えればいいのにと、キョウは常日頃思っている。
 例題が静かにキョウの前まで漂ってきたので、キョウは指先でそれを掠め取って、手短な答えのみを記す。赤く丸の付いた答案が再び翻って、要所要所、重要な公式に赤線が引かれながら教師の元へ戻った。キョウはそこから興味を失い、俯いて頬杖を付く。
 最近、キョウは、常々考えるようになった。タマリはどこに行ったのか、ではない。タマリがいない日常に慣れてしまった自分への危機感。
「物事は慣れなんだよ」と、窓の向こうで彼女が言った。
 窓の向こうは、雨。梅雨もそろそろ終わりに差し掛かって、南のほうから段々と梅雨明けの知らせが舞い込んできていたが、東京は相変わらずだ。旧部室棟は見えない。その先に見えるはずの日本タワーも、見えない。
「慣れって怖いよね」
 キョウは考える。タマリとこんな会話をしただろうか。
「してない」キョウがそう結論付けると、彼に寄り添うように座ったタマリは、悲しそうな顔をしたはずだ。
「けれど、どこにいるんだ」
「探しても、無駄だよ」と彼女は優しく言った。
 隣に居る暖かい感触は、きっと妄想の類だ。キョウが理性的にそんなことを思うと、急に気温が上がったように感じた。
「それ、……でも」
 彼が寝苦しさに頭を振ると、眼前に教師が居た。今が授業中であることをきっぱりと告げ、周囲から笑い声が上がる。罰として、再び問題が滑空してきたが、先ほどの問題と比べて難しい問題だった。キョウは「わかりません」とだけ答えた。

 担任からの呼び出しは、仕方がなかったとキョウも感じていた。それもそうだ。期末考査直前のタイミングで、こんな態度の悪い生徒もそうそう居はしない。実際はもっと態度の悪い生徒はいたのだが、そういったそういった生徒はそもそも授業など出たりしない。
 忠告は、さほど辛辣なものではなかった。最近起こったことを聞く、妥当な滑り出しに、キョウは「まあ」とだけ答える。その結果に満足なものを見つけられなかったのだろう、教師は残念そうに次の手を考える。
 鞭を選んだらしい。もしくは、面倒臭くなったのか。教師は昨今のキョウの授業態度について細かく評価し、学生として相応しくないと結論付ける。流石のキョウも、それには上の空で返すわけにいかず「すみませんでした」と答えた。
 担任は、その様子を見て納得したようだった。まだ同じようなら、次はもっとしっかり叱るとの通告の後、キョウは解放された。

 日常は日常として、こなさねばならない。キョウはそう思いなおすことにして、職員室を後にした。
 叱られている間に生徒はみな帰ってしまっていて、薄暗い廊下が彼を迎える。一緒に帰る友など、わざわざ残って居ようはずがない。キョウは足早に昇降口へ向かって、そして気付いた。
 傘がないことに。
 この学校での物品の管理は厳密に行われており、それは生徒の私物であっても例外ではない。のだが、全ての私物まで管理するわけにもいかず、曖昧に済まされているところがあるのは事実だった。傘はそのうちの一つであって、構内の各所に時代錯誤のプラスチック傘立てが設置してあるだけという程度なのだった。
 彼の傘は利便性を優先して昇降口に置いてあったはずなのだが、それは同時に紛失しやすいという、つまり誰かに持っていかれる危険を孕む。キョウは嘆息した。何もこんな憂鬱な日に、盗まれることもないじゃないか。彼はそんなことを思った。
 タマリは、それを嫌っていたから教室のロッカーに傘を仕舞いこんでいたんじゃなかったか。キョウはふとそんなことを思い出した。結局、あれは嘘だったんだろうか。無闇に大きい傘だった。あんなもの、どうやって仕舞っていたのだろう。彼はぼんやりとした顔のまま、昇降口から顔を出す。
 突き出した屋根の向こう側に、春の終わりの雨はまだ降り続いていて、顔を出した青年の肩を僅かに濡らした。
 刹那、キョウは雨の中に駆け出した。雨に濡れることを厭うこともなく、そもそも雨など降っていないかのように。

 旧部室棟は、雨に濡れたコンクリート独特の匂いに包まれている。キョウは、息を切らしたままその裏手に回って、画一的に並んだ窓をきっと睨みつけた。白く濁ったそれは、雨に濡れて艶消しの光を放っている。
「きっと」キョウは呟いた。そして思い出す。いつか、タマリが部室で見せた姿を。
 その彼女は、埃っぽい部屋の中で、少しでも外の景色を見ようと、窓を開けた。少しだけ開けた窓から、雨が降り注ぎ、彼女の頬を濡らした。風が吹いて、彼女の声は廊下の隅に流されていった。注いだ光が、眩しかった。
「もし、タマリが、そうだったとしたら」キョウは雨と一緒に空気を吸い込み、咳き込みながら呟いた。
 キョウは息を落ち着けながら窓の数を数える。建物の構造を考え、その平面図と立体図を回転させる。心の中の自分の姿が、重く釣り下がった鎖を無視して旧部室棟に入り、時間軸を無視しながらゆっくりと飛び飛びに進んでいく。
「……タマリ」
 意を決して掴んだ窓は、すんなりと開いた。旧吹奏楽部室、一番端の窓だった。

 8

 窓からの闖入者に、タマリは目を丸くしていた。キョウが桟を乗り越えると、彼の靴の形に床が黒ずんだ。
 彼女はいつもの場所にパイプ椅子を置いて、同じように本を開いていた。一つに縛っただけの飾り気のない黒髪に、少し茶目っ気の見えるプラスチックの赤い眼鏡。ふるふると唇を震わせて、何を言うべきか迷うその少女は、正しくキョウが求めていた姿かたちだった。
「キョウ、くん?」
 彼女は、そっと本を傍らに置いて、パイプ椅子から立ち上がる。「ね、濡れてるよ」
「なんで」
 ゆっくりと歩み寄る彼女に、キョウは声を荒げた。
「なんでずっと……」その言葉にタマリは足を止める。何でずっと、居なくなったまま、連絡もなく。言いたいことが多すぎて言えないのを、キョウは初めて体験したように思った。
「何でだと思う?」
 彼女は寂しそうに言った。
「知るかよッ!」
 その声に一番驚いたのは、キョウ本人だった。タマリが一歩だけ後ろに引いて、いつものように寂しげに笑った。
 沈黙が場を支配し直し、外の雨音だけが旧吹奏楽部室を押しつぶす。音はあるのに、無響室のように耳鳴りだけが響くのをキョウは聞いた。
「そんなに、怒らないで?」
 先に口を開いたのは、タマリのほうだった。崩れるように椅子に座り込み、俯いたまま語り始める。
「あんまり居ると、辛くなる、から、かな。ごめんね、私にも、あんまりわかんないんだ。キョウくんは、多分わかったんだよね。頭いいもん」
「それは」キョウはそこまで言って、口をつぐんだ。タマリが制し、そして続きを語り始めたからだ。
「せっかくだから、話の続きを聞いていってよ。私ができるのは、多分それだけ、だから」
 彼女はふと顔を上げて、いつものように優しげに笑った。「まずは、髪拭いてね。風邪引いちゃうよ」
 差し出された大判のハンカチをキョウは素直に受け取った。

「その男の人は、探偵だった。探偵って、不思議な仕事だと思わない? 真実を解き明かすって言えばなんか綺麗な仕事に思えるけど」
 タマリはキョウに椅子を勧めた。素直にキョウが座ってから、
「恨みを買うことも、ある」
「恨み」キョウが復唱すると、彼女は頷いた。
「切っ掛けは些細なことだった。些細なことだったけど、それでも、偶然ってのは重なるもの」
 タマリはちらりと窓を見た。先ほどキョウが入ってきた窓の周りには、雨が作った水溜りが幾らか。
「無実だと証明した人の代わりに、何人もの罪を裁いてきた。うん、ちょっと違うかな」
 裁いてきた、じゃなくて。タマリはくるりと指を回して、「暴いてきた、かな」と訂正する。
「恨まれるようなことは、たくさんあったの。ヒューマノイドの彼女は、それを何度も食い止めた。影ながら」
 タマリの視線はふらふらと漂っていた。キョウはその瞳をじっと見つめていた。
「汚いこともやった。男に害をなそうとする人を、追い払ったり、貶めたり、あるいは……どうしようもなかった、ときもあった」
 キョウは唾を嚥下した。彼女の言ったことが、理解できたのだ。
「男はそれに気付いた。知ってしまった。彼は『勝手なことをするな』って怒った。彼は正義に生きていることに意味があると、自分自身を縛り付けていた。だから、その生き様がそういったものに支えられていることに、耐えられなかった」そこまで言って、彼女は付け加える。「の、かもしれない」
「今となってはわからないけれど。ともかく、彼女は電源を切られた。男にとっては、それはちょっとしたお仕置きだったのかもしれない」
 電源。ヒューマノイドにも、もちろんそのスイッチは付いている。簡単に押されることのないようなものではあるけれど、管理者権限なら用意に実行することが出来る。それに逆らう術を持つヒューマノイドは、居ない。例えロボット原則を破れたとしても。
「彼女が目を醒ましたとき、彼はいなくなっていた」
 言葉に不釣合いな笑顔を見せて、タマリはキョウの様子を伺った。「ああ」と彼が答えると、彼女は安心したように息をつく。
「彼女を起こしたのは、男の子供だったんだけれど……事情は知らなかったらしいの。でも、最悪の……いいえ。これ以上ないくらいのタイミングで、その子は彼女を起動させた。皮肉なことに」

「皮肉」キョウが呟く。タマリは頷いた。「ちょうど、そのとき、男は襲われていた」
「彼女は、持てる力の全てを発揮して、彼の元に駆けつけた。彼は血に塗れて、彼を襲った人も、まだそこにいた」
 彼女の細めた目は、目の前にその出来事が広がっているようだった。
「怒り、かな。違うかもしれない。その彼女は、男を傷つけたその人を、殺した。ハル・ヒューマノイドの全機能を駆使して、撃ち、貫き、切り裂き、砕き、原形がなくなるまで」
 キョウは寒気を感じて、身を震わせた。その様子に気付いたタマリが、「寒い? 大丈夫?」と心配そうに聞いたが、その言葉に頷くのが精一杯だった。
「どれくらいそうやって、死体を弄んでいたのか、わからないけれど。彼女が我に返ったとき、もうそこには何も残ってなかった」
「何も?」キョウは恐る恐る聞いた。
「雨が、降っていたから」彼女は端的に答えた。キョウは、息を呑んだ。
「そこまでして、やっと、彼女は主人のことを思い出した。駆け寄ってみて、気付いた。もう手遅れだった」
「彼女は泣いた。ハル・ヒューマノイドに涙は必要ないし、流れた涙は彼女自身の身体を切り出した作り物だったけれど、泣き続けた。彼女はそこまでして、始めて気が付いたの。自分がその人を好きだったってこと」
 タマリは笑顔を作り直して、キョウに首をかしげた。キョウは頷き、先を望んだ。
「彼女は自分を責めた。もし、自分が関わっていなければ、男は成功しなかったけど、……恨まれることも、多分なかった」彼女は続ける。
「もし、自分がもう少し優れていれば、男を欺き続けられた。……ずっと守り続けられた」そして、
「もしかして、自分は、彼にできることがあったんじゃないか。……ハル・ヒューマノイドだったからこそ」
 ハル・ヒューマノイド。それはハルの可塑性をヒューマノイド人格自身が操作できるようにした汎用ヒューマノイドの一種。そして、ハル。医療用可塑性樹脂の一種──少し優れた水絆創膏。
「助けられた……かもしれない?」キョウの推論に、タマリは頷いた。「自分は、それを無視して復讐に走った。イレギュラーなヒューマノイド、……だったからこそ。そう思ったの」

 タマリは、それからしばらく何も言わないで笑っていた。
 キョウは、何を言うべきかわからなくて、ずっとその笑顔を見ていた。何か言わなければならない、そう感じていたから、必死で考えていた。
「その、何だ……」
 やっと出た言葉は、意味さえも成していなかった。だが、タマリは頷いた。「それから彼女は、身を隠した。何人もを殺し、主人さえ守れなかったイレギュラーなヒューマノイドは」
「皮肉なことにね。探偵の助手をやっていたからこそ、逃げ隠れはうまかった。ハル・ヒューマノイドだもの、変装も得意だから。誰にも気取られず、社会の隅っこで背景になって生き続けた」
 タマリは辺りを見回して、キョウに一回頷いた。
「彼女は、すべきことが、まだ一つだけあったから」
「すべき、こと?」キョウは尋ねた。
「そう。男の遺した家族。彼女は自分の身を隠しながら、それを守り続けたの。目立たぬように、歪まぬように、楽な人生を送らせるためではなく、辛い人生を送らせないために。その人の妻が旅立つまでを見続け、息子を、孫を、孫娘を……」
「……そうやって、今まで? ずっと?」
「そう。ずっと、ずうっと」
 タマリは一際嬉しそうに笑った。
「でも、多分、もう終わる」タマリは続けた。「彼女はハル・ヒューマノイドだから、人間の何倍も生きることが出来たけれど、それでも永遠じゃない」
 キョウははっとなって、拳を握り締めた。それを、タマリは不思議そうに見つめる。
「それってつまり」
「今すぐってわけじゃない。でもね、彼女はずっと感じてたの。自分が見届けられるのはこの子までなんだろう、って。ヒューマノイドだって自分の老いがわかるなんて、ね。何か不思議だと思うけど」
 不意に彼女は立ち上がった。キョウが怪訝な顔をしてそれを見ていると、彼女は窓際まで歩いていって、窓を開けた。
「そう」
 雨音だけが、キョウには聞こえた。春の終わりの雨は、土砂降りに変わっていた。それとも、元々そうだったのだろうか。吹き込む風と雨が、キョウの頬までも叩いた。外は春を散らす暴風雨。
「ここで、彼を見ていたとき。あなたを見ていたときに」
「良く、聞こえな」キョウは首を振ってタマリに駆け寄る。
「素敵な男の子に成長したね、キョウくん」
 ぴしゃり、と窓が閉じられて、窓の外の轟音は遠くになった。後姿のタマリが、ゆっくりとキョウに向き直る。
「それを確かめられたから、私は──」

「もう大丈夫。……って、思った」
 濡れて振り返った彼女は、涙を流していた。「私が居なくても、多分」

「……でもね」タマリは涙をぬぐって続ける。
「キョウくん、私を見つけちゃったね」キョウは頭を振った。「いいや」
「タマリ、お前は……多分、隠れるつもりなんてなかった。そもそも、隠れる場所なら、幾らでも見つけられるんだろ?」
「うん。そう。キョウくんから逃げるだけが目的なら、もう東京にはいなかったと思うよ」
 それは、そうだろう。キョウが腕を組んで、首を傾げた。
「でも、なんで」なぜここから出てこなかったのか。隠れるつもりでないのに、結果として隠れていたのは、どうしてか。キョウは問い詰めた。
「運命なのかな、って思ったの」
 悪戯っぽく笑って、タマリは言った。
「ここ、好きだから。私」そして「キョウ君がこの学校に入ると決まったときから、ずっといた。ここが封鎖されたのは、単なる偶然で……私、見られてたんだね……気付かなかった。もうお婆ちゃんなのかな」
 彼女はくすくすと笑って「これはいい機会なのかなって思った。キョウくんが来ても、来なくても、ここなら納得できる気がしたし」
 キョウは頷いた。
「わかったような、わからないような」彼は正直に応える。
「ねえ、キョウくん。キョウくんは、きっと私がそのハル・ヒューマノイドだって、わかっていながらここに来たんだよね」
「確信はなかった、が」
 これまでの「映画」の内容が、あまりに具体的過ぎた。それはもちろんのこと、思い返せば幾らでも気付けそうなものだ。「ロッカーに入りきらないはずの大きさの傘」「いつの間にかに消える本」「度の入った眼鏡を掛けているのに、随分と遠くが見えていた」「一つ購入したヒューマノイド用電池」「誰かのロッカーを勝手に開ける技術」そもそも──「どうして旧部室棟に最初から鍵が掛かっていなかったのか」。
 その答えは、全て一つの理由に辿り着いた。
「そうであれば、自然だと思った。そうであれば」
「納得、いった?」彼女は教師のような物言いでそう尋ねた。
「ああ」
 生徒のようにキョウが頷くと、タマリは満足げに微笑んだ。キョウの瞳をじっと見つめ、頬を伝って足に至るまで、その全てをゆっくりと見てから、
「ちょっと、似てきたかもしれない」
 彼女はそう呟いてから、
「私は、ここで命を終えてもいい。そう覚悟してた。もう何もすることはない、と思ってた。あ、ヒューマノイドだから、命はないかもしれないけど」
 キョウは唇をかみ締める。何を言うべきか、それは何となくわかるが、彼女の笑顔に説教をする意味は、限りなく薄いように思う。
「だから、キョウくん、教えて欲しいの。……私は。私は、私は何をしよう? ねえ、『映画』の続きがあるなら、それを、私に教えて」
「何をする、でもない」
 キョウは答えた。
「でも、このまま消えようだなんて、勝手なことは、するな」
「ありがとう、キョウくん。……怒ってる?」タマリは嬉しそうに笑って、涙をもう一度拭った。
「ああ、怒ってる」キョウは拗ねたように言った。「お陰で散々な目にも遭ったし」
「え、何、それ?」興味津々に尋ねる彼女に、キョウは「なんでもない」とだけ答える。
「気になるなあ」
「気にしなくていい」キョウが咳払いをして、「もう、済んだことだから」

 彼の言葉を受け取って、深く考えて、彼女は答えた。彼女は、忘れるということを知らない。だから「済んだ」などということもない。彼女の眼前には、未だありありと慟哭の風景があり、激情と諦念があり、泥に塗れた長すぎる時間の苦痛がある。──でも、それは全て済んだことだ。そしてその過去の中に、少年を悲しませた思い出が埋もれたのを彼女は知った。
 人間は、忘れる。記憶も伝わらない。それでも、かつて彼女を見たその目に良く似た少年の目が、鏡のように彼女を映している。その決定的な違いを彼女は理解して、そして初めて実感できたような気がした。とてもとても長い時間を掛けて、やっと。
 そして、彼女はゆっくりと言った。
「そうだね」