「宵闇グラティチュード」
几帳面に白いタイル床が続き、壁も天井もただひたすらに明るい。整然と並ぶ蛍光灯の群れが、きんと冷えた空気を透き通りながら照らしている。男は誰も見えない駅舎の中、足早に歩いていた。革手袋越しに右手を締め付ける黒の鞄。暗い灰の外套の前をしっかりと閉めて、男は溜息をつく。昼のざわめきは既に息を潜め、耳を貫くほどの静寂。かすかに感じる空気の鳴動と己の血流だけが、白い景色に反射して見えている。
空腹に苛み、彼はもう一度だけと決めて溜息をついた。彼の夕飯は塩辛く舌を刺す出来合いの弁当だったし、既に食べ終えてからかなりの時間が経っていた。居酒屋かその類の店ならば開いているだろう。だが、飲んで全てを忘れようという気がしなかったのだ。彼は、今日はただ家に帰り心地よい淀みに眠ろう、そう考えていた。華々しく、あるいは上品に並べられる普段の商品も今は灰色の覆い越しに隠され、押し切られた空間が通路の形を強調し続けている。進めと言うのだ。ただひたすらに前へと。
男が最初に感じたのは、蒸気の香りだった。炊き立ての白米から漂うのと同じ、無臭の感覚でありながら心地いい香り。男はかぶりを振る。疑問は尽きない。こんな時間に、駅舎の中でやっている店などあるはずがない。だが、じきにその店は男の前に訪れた。角を曲がった男は左手の壁に古びた門を目にしたのだ。門は古くからそこにあったことを示すように汚れた色彩を浮かべていた。
納屋の奥深く封じられた硝子の浮き玉のような、くすんだ緑の硝子がそこには塗りこめられて光っていた。草を搾った緑を包み、アラベスクを浮き彫りにした名も知れぬ樹木が天に交差している。門は大人一人くぐるのが精一杯の大きさだった。人を迎える口と言うにはあまりに狭かった。通路の入口だと言っても信じられるだろう。だが、こじんまりとしたその門の前には、黒板が画板立てに寄りかかっていてこう書かれていた。開店中。
中を男は覗き込み、そして首をひねる。門を抜けて、すぐにその空間は閉じていた。小部屋というより、押入れの類と形容したほうが近いだろう。三畳もないだろう一間の中央に、中央に丸いテーブルとスツールが置かれ、それを壁一面の戸棚が見下ろしていたのだ。そしてテーブルにはクロスが引かれ、純白にきらめいている。
まるで唐突に風が吹いたように、男は肩を震わせた。
「あ、いらっしゃいませ。どうぞお掛けになってお待ちください」
男が振り向くと、そこにはエプロン姿の女が立っていた。着古していながら小奇麗な装いと清楚な顔立ち。飾り気のない黒い髪を単純に編んでいるその女は、男が中に入るよう、丁寧な仕草で促した。勧められるままに男はスツールに腰掛ける。男にとってはあまりに狭い室内。彼は自らの鞄を壁に立てかけた。それを認めた女はにっこりと笑うと、エプロンのポケットから鈴を取り出し、それをテーブルに置いた。神社や雑貨屋で売られているような一対の鈴だった。
「少々お待ちください」
女は姿を消した。男から門越しに見える世界は駅舎の廊下の真っ白な壁だけになる。男は息を吐いて、外套の前をわずかに緩めて見回した。三畳一間でももう少し広く使えるだろう。三方を囲み天井まで届いている木製の棚には、様々な形の曇ったグラス、洋酒を中心とした酒の類、そして真っ白に磨き上げられた皿が重ねられていた。おそらく三畳一間ほどの部屋なのだろうが、この棚のおかげで、ただでさえ狭い室内がもっと狭くなっていたことは言うまでもない。
女は何を了承したのか、どこかへ消えたきりしばらく戻ってこなかった。男が並べられた酒のラベルを眺め、読めない言語とどうにか格闘していると、彼女が帰ってきた。手に持った皿をまずテーブルに置き、それに続いて提げた籠から銀のスプーンとフォークを並べる。男がそれを見届けた後、視線を上げると、女と視線が合う。見る前から笑顔だったのだろう。彼女はそれを絶やさずにこう言った。
「本日のお勧め、ビーフシチューで御座います」
少しだけ深い白色の深皿。そこに、沈んだ琥珀の色の水面が、丸く湛えられている。形をわずかに残すばかりの牛肉と野菜が浮き沈みし、白い湯気が男の頬を撫でている。
「失礼しますね」
女はそう言ってから、ちょうど男の裏に位置する棚からグラスを取り上げる。半分に切ったレモンのようなワイングラスが、丁寧にテーブルクロスの上に置かれた。女は続けて籠からワインを取り出し、栓を手早く抜き去った。湖底で丸く波立ち、グラスに赤い液体が満たされる。
「……お待たせしました」
女は一歩だけ後ろに下がると、わからないくらいに小さく一礼して、再び姿を消した。男は躊躇った後、観念してスプーンを手にした。水面を揺らし、鏡色のスプーンが、夕焼けの色に染まる。
御馳走様。男は思った。
男は頬が緩むのを感じながら、腹の底から息をついた。香りのない蒸気としての余韻が男の胸を焦がしている。ふう、と吐いた息が、ほお、と色づくのを男は感じた。皿は干潟の夕暮れのように昏々とした眠りにつき、その吐息を確かに受け止めている。先ほど女が置いていった一対の鈴に手を触れてから、男は考えて、わずかに躊躇い、それを鳴らした。ちりん、と甲高い音が響き、その後山彦にように静寂が返ってくる。
おおよそ数十秒。長く待った感覚はなく、それでいて男は待たされた。男は彼女が姿を現すまで、スプーンの柄に指を置いて、その鋭角を感じていた。
「いかがでしたでしょうか」
男は頷いてから女の顔を見た。ぴたりと視線が合い、少し気まずそうに取り繕うような笑いを浮かべてから、彼女も軽く会釈し返す。
「有難う御座いました」
女は手早く食器類を重ね、一まとめにしてから持ち上げる。銀に輝く一対の鈴だけをクロスの上に残し、女は門の外へ出て行ってしまう。会計は。男はそう言おうとしたが、それよりも席を立つほうが早かった。その物音に女が振り返り、困ったような顔をして笑い、そして門の向こうから姿を消した。
店などない。男は最初からそれを知っていた。こんなところに店はなく、こんな時間にやっている店などない。男は寂しそうに笑い、足元の鞄を取り上げた。変わらず重い鞄だ。中の書類は大半が無意味な、それでいて男が生きるに必須の書類たちだった。忘れるわけにもいくまい。男は立ち上がり、門を超えて踏み出した。
男は手袋からずり落ちかけた鞄を持ち直した。彼は駅舎の中、改札口へ続くほう、家まで辿り着く真っ白な廊下を歩いている。男の革靴の底に敷かれた樹脂が、几帳面なタイルとぶつかって軽い音を立てている。それと吐息のほかに音はなかった。既に時刻は遅く、周囲に人の姿はない。男は静寂だけを浴びせる淡色の廊下に、ほてった頬から息をついた。胸の鼓動が聞こえてきそうなほどに、どうしてか体が温かかった。
「いってらっしゃいませ」
女の声が響いて聞こえた気がして、男は首をかしげた。男のほかには誰もいない。そこに誰もいないなら、響いた声は一体誰のものだろうか。男は歩みを止めなかった。首だけを傾け後ろを伺う。もちろん後ろの景色など見えようはずもない。立ち止まって後ろを振り向けば何かが見えたのかもしれないが、男がそうすることはなかった。男はそのまま改めて前へと向き直り、もう一度、ほうと息をついた。
人のいない駅舎を悠々と進む男。じきに改札口が見えてきて、男は天から吊り下がる掲示板を認めた。ぶうんと音を立ててきらめいている電光の掲示板だ。既に終電が近く、電気特有の痺れるような震えと、ぬめつくような停滞した空気が掲示板を覆っている。男は手馴れた動作で外套のポケットをまさぐり、ややくたびれた定期乗車券を取り出しながら、掲示板を見上げる。退屈そうに欠伸をした駅員を尻目に見ながら、男は改札をくぐり、電車に乗り込む。明るい車内は、ぼんやりとした暖かさと湿り気を帯びていた。椅子はほとんど空いていたが、男は閉められた側の戸に身体を預けた。そして思う。これからも、今のように窓硝子に頬を寄せて冷たさを感じ、遠くと近くの明かりが目まぐるしく過ぎ去るのを見ながら、物思いにふけりつつ帰るのだろうと。
アナウンスが入り、物々しい音を立てて戸が閉まり、電車が走り出す。男が握りなおした鞄の脇で、ちりん、と銀の鈴が無風に揺れた。