「水をおよぐものたち」(「恒星少女」二次創作)
ラピッドスター号は虚ろな海を滑っていく。
このデッキから見えているのはいつだって流れ過ぎることもない彼方の恒星たち、そして闇だけだ。
あの五百日ばかりの責め苦の間も私はこの景色をずっと見ていた。ある時には遠ざかる地球の姿を追いかけるために。それが見えなくなってからは時刻のずれを計算し続けるために。それにも絶望を抱いてからは、どこかの星にこの船が衝突し粉みじんとなる想像のために。
恒星少女、そう名乗る彼女たちの訪れによって日々は終わることになる。
しかしそれでもまだあの時の狂気は私の後ろに潜んでいるのだろう。
深宇宙の闇から、視線を戻した。
夢見が不安なとき私は計器のチェックを念入りにすることにしている。
この船の制御は自動で行われているものだからわざわざ見て回る必要はない。ディファイアントに任せておけば問題のあったところだけ知らせてくれるのだから、それでいいものではある。しかしこうやって用心深く見ておくだけでちょっとした安心を得ることもできる。
「船長、まだお休みにならないんですか」
コンソールの前に私がいるのに気がついてアルレシャはそう心配してくれた。
彼女も先ほどまで激しい戦いの先陣を切っていたのだからお互い様だろう。反知性体の一団を退けてから一時間ほどしか経っていない。
「私はいいんです。私は」
指摘に眉をひそめてアルレシャは不機嫌さを隠さなかった。彼女も決して疲れていないというわけではないだろう、ただそれを上回るプライドがどうしても休むことを邪魔しているようだった。
そんな性格だから、怠惰なアルペルグと気儘なフム、生活態度の悪いうお座の二人にいつも振り回されている。そう考えると少し可哀想な気もしてくる。
「なんか失礼なこと、考えてません? 船長」
私は追求をかわしてコンソールに目を落とす。呆れるような微笑ましいようなそんな気持ちをかみしめながら、私はもう少ししたら休むとだけ付け足した。
船内環境を要約したコンソールにはいつも通りのグリーンの表示が並んでいたが、一つだけ黄色いアラートが出ているのが目についた。栽培室の水循環システム。
私はディファイアントを呼んで状況を尋ねてみると、どうやら水漏れが発生しているらしく流量計が期待される値より少し下回っているらしい。
「蒸発分は回収できていますから、最終的な収支には問題がないそうです。今のまま放っておいたとしても、現実的な期間で影響が出ることはないとのことでした」
アルレシャは先にアラートに気づいていたらしくそのように補足してくれた。
その正確性や妥当さには疑いの余地はないものだが、やはりこういったアラートを放置しておくというのは気持ちが悪い。そう私が返答するとアルレシャは困ったようにそうもいかないと答えた。
「ディスカバリーの作業タスクを開いてください」
アルレシャがディファイアントにそう指示を出すと、モニターにいくつかウインドウが明滅したのち、黄色いプログレスバーが大量に敷き詰められた。普段外殻の修理をしているディスカバリーだが作業工程表は意外なほど埋まっているようだ。
「彼の作業タスクはこんな感じですから、少なくとも一週間くらいは手を付けられないとのことです」
反知性体はラピッドスター号を狙うことはないが、それでも戦いの余波でダメージを負わないというわけではない。恒星間移動中に負荷がかかることも最近では増えてきており、ディスカバリーには随分と苦労を掛けている。
そんな風に考えていると、窓の外の宇宙にディスカバリーが飛んでいるのが見えた。
それなら手の空いている私が修理してしまえばいい。船外活動になる外殻の補修ならともかく、船内の修復だというなら私がやってしまっても危険はないはずだ。
「そんな風に言うだろうなとは思っていました」
私の提案にアルレシャは腕を組んで渋い顔をする。
「船長もわかっているとは思いますが、そんなことは船長の仕事ではありません。船長には反知性体と遭遇したときの迅速なご指示、次の航路の承認、量子物質の回収の制御……やっていただくことがたくさんあるんですから」
それはその通りなのだが、私はデッキで時間ばかりを潰しているというのもあまり望ましいとは思っていなかった。何かできることがあればしていたいし、手を動かしていれば様々な不安を忘れていられるのだ。
「船長には、その……」
私をなんとか説得しようとアルレシャは言いよどむ。強い口調で指摘するのは得意であっても、あまり人を説き伏せるのが得意でないことは最近なんとなくわかってきていた。
「私としては、船長にはきちんと休息をとっていていただきたいです」
アルレシャはわずかに頬を染めたようにも見えたが、すぐに向き直ってしまったのでよくわからなくなってしまった。
それから彼女は観念したのか、渋々と私の提案を受け入れる気になったようだった。
「わかりました。でも、一つだけお願いさせてください。アルペルグを連れて行ってください」
不思議な提案に私が首をかしげているとアルレシャは慌てて付け足した。
「フムが、こういうときにはそうしろって言っていたんです。船長だけでいるより連絡がつきやすくなりますからって。お願いします」
言葉の後半は聞き取りにくいほどの早口だった。彼女はどこか無力さをかみしめるように息をついてからアルペルグに呼び出しを掛けた。
当のアルペルグはというと、呼ばれるなどとは思ってもみなかったのか目を白黒させてその招きに応じた。じきに何となく嬉しい気持ちに至ったのか、ふんにゃりと笑ってみせた。
ひょいひょい歩くアルペルグを連れて、私はアラートを出している一室を訪ねた。
「この部屋、はじめて入ったよ」
アルペルグがそのように言うのも無理はない。ここはラピッドスター号の乗員のために用意された栽培室だ。
「栽培室?」
私は首をかしげるアルペルグに説明する。船内の食品は長期間の航海に十分な量を確保しているが、それだけで生活するというのは健全な状態ではない。それを補うことを期待して、この栽培室では各種の植物を育てることができるようになっている。一部の恒星少女がたしなんでいるお酒と同じく嗜好品というわけだ。
とはいえ、ラピッドスター号が私だけを乗せて出港してしまってから、この部屋が使われたことはない。食品の消費量も本来より著しく少ないし、私自身も使おうとは思わなかった。そうしてこの部屋は使われることなく予備の区画のままになっている。
「なーんかもったいないねえ」
アルペルグはそんな風にぼやきながら、調光フィルムからの強い恒星の光に目を細めた。畑は空の下で育つものという先入観もあってかこの部屋には必要以上の大きい窓が設けられている。張られた偏光フィルムの向こうには数えきれない恒星の数が見えていて、不活状態の白い畝が観客席のように規則的に並ぶ。
「ん、でもさ。食べるものが足りないから作るんじゃなくて、楽しみのために作る部屋なんだよね? ご主人、食べたいものとかは、ないの」
食べたいものなど宇宙に出てから考えたことがなかった。私が返答を濁していると、アルペルグはそんなことを気にする様子もなかった。
「あたしはあるなあ。この身体だと、食べ物っておいしいし」
代理知性にはなかった物理的な体。一部の恒星少女たちはそのために食品や酒に魅せられた様子があった。アルペルグはそこまで熱狂的というわけでもなさそうだったが、思うところはあるのだろう。
「あ、でも……お魚は何の野菜を食べるんだろ」
地球にいたことのない彼女は知識はあっても実感はないのかもしれない。不思議な疑問に私は苦笑いを浮かべた。
しばらくしてアルペルグが何かに気づいた。招かれて調べてみると、わずかではあるが畝に水が供給されている領域があるようだった。流れを遡ってみれば水耕栽培のシステムがどうしてか稼働しており、水路が満たされていた。
温度調整のための溜池には水底の青い蛍光クリスタルが幻想的に揺れて「正常」を伝えている。それを見つけたアルペルグは得意げに頷いた。これを止めればよいはずだ。
「それじゃあお仕事完了ってわけだねえ。よかったよかった」
アルペルグが能天気に頷く。私がそれを尻目に制御盤を開こうとしていたところ、不意に制止される。
「ねえご主人、止める前に少し遊んでもいいかなあ?」
どういうことなのか私は訊ね返したが、彼女はそれに返答すらしなかった。その代わりに靴を脱ぎすててしまう。そうしてから躊躇なく、溜池に足指を付けてしまった。
「へへへ、冷たい」
アルペルグはいたずらっぽく笑った。ぴしゃりぴしゃり素足が水音を立てるたび、血色のいい踵から滴が垂れ落ちていく。
船内に流す上水だから飲用に足らないレベルのものは使わない。食事にも入浴にも使用されるものだから、足をつけたところで問題があるものではない。私は咎めようかとも考えたがやはり思い直す。これくらいの遊びで喜んでくれるというならさせてあげてもいいだろう。
彼女が水を好んでいるのは、私達人類の持つ“うお座”のイメージによるものだ。地球から見れば、秋の夜に浮かぶ二匹の魚……アルレシャという“ひも”で結ばれた天真爛漫な魚の片割れ、それがアルペルグ。魚は水がなくしては生きられない。それだというのに液体の水がほとんど存在しないこの宇宙に呼び出されてしまった彼女たち。
人類の身勝手で辛い思いをさせてしまったようにも思えて、申し訳ない気もする。
「ご主人も入ったらどうかな、ね」
そんな私の思考を知ってか知らずかアルペルグは私を誘った。
さすがに入るのは気が引けたので、私は溜池の水をすくって楽しむに留めた。水は私の手からこぼれれば、何の工夫もなく流れ落ち、水面へ戻っていく。本来ならこうではなかっただろう水。私ではない誰かのために用意されていた、そして裏切ってしまった水。
(ずーっと難しい顔をしてるから、たまには、さ、ご主人)
彼女の柔らかい声に強い叡智を感じた気がして、私はふうと息を吐いた。彼女は私のことを「船長」とは言わない。ずっと「ご主人」と呼んでくれている。私自身の望んでいることが、その輪郭だけでも触れられたような気がした。
「アルレシャとフムも呼んじゃおうか。怒られるかなあ?」
アルペルグは首をひねった。フムは喜びつつ悪ふざけをしてくれるだろうが、アルレシャは怒るだろう。遊んでないでさっさと仕事しなさーいなんて言われるに違いない。そう笑って返すとアルペルグはどこか嬉しそうに同意した。
水耕栽培システムを停止させた私とアルペルグは栽培室を後にした。
調べてみれば難しい原因などはなく、単に元栓が緩んでいたために水量がゼロになっておらず、それを感知して自動で動作しているというだけのことだった。元栓が緩んでいた理由は気にならないわけでもないが、特別な異常がある様子は見当たらなかった。
溜池で遊んでいたアルペルグはというと、水に濡れたままの素足でぺたぺた廊下を歩いている。さすがにそのまま履くのは気持ちが悪いのだろう、両手に提げたブーツがぶらぶらと揺れていた。濡らして困るような床材にはなっていないが、後で掃除はしておいた方がいいのかなとは思っている。
「あら、アルペルグじゃない。いいわね、水遊び」
デッキに戻る途中、通りかかったフムがそう笑った。アルペルグがブーツを脱いでいる様子に目敏く事態を把握してからかい半分に言ったものなのだが、アルペルグは表裏なくそれに応えていた。フムは暇つぶしになるとでも考えたのか、私に事情を尋ねる。
「ふうん。なんで元栓が緩んでいたのかしらねえ」
私が手短に、ただし水遊びのくだりは控えめに説明すると、フムは腕を組んで悩ましくうなった。明らかに胸元に視線を集めようとしてくるあたり、彼女の仕草は少しばかり目に毒なところがある。時折あからさまにわざとらしいときもあるが、どこまでを無意識にやっていることなのだろうか。
「もしかしたら、水遊びしたくてこっそり開けてたのかもしれないわね。アルペルグじゃないし、実は、アルレシャがやんちゃしていたとか?」
くすくすとフムは笑って言ったが、アルレシャがそんなことをするわけがないだろうと私が迷う様子もなく応えれば、フムは意外そうな顔をした。
「あらあ。アルレシャはああ見えて結構やんちゃだと思うんだけど。船長のためになるなら、結構思い切ったこともできちゃうんじゃないかしらね」
私は彼女の言わんとしていることがいまいち受け取りきれず、眉をひそめた。その様子にフムは再び意味ありげな微笑みを浮かべると、ごまかすように視線を逸らした。
「ま、どうでもいいわ。船長もそのうちわかるわよ」
それからフムはアルペルグに向き直り、忠告を始める。
「そうそう、アルペルグ。濡れた素足のままデッキにいくのはやめたほうがいいわね。アルレシャに怒鳴られるわよ」
それはもっともだと横で聞いていても思う。アルペルグは一旦自室によって身だしなみを整えてからデッキに戻ることにしたようだった。
フムと私はあわてて廊下をかけていくアルペルグを見送った。彼女がこけないようにだけ祈るばかりだ。
「……あんなだけどね」
アルペルグの姿が見えなくなってから、フムは口を開いた。
「私たちうお座の中で、アルペルグは明るい星でしょ? でも、どうしてかずっと名前がよくわからなかった。知ってるわよね」
私は頷いた。うお座イータ星、アルペルグは、天文学の本にも名前が出てこないことが多い星だ。暗い星の多いうお座の中にあって最も等級が高い星である。にも関わらず紹介されるのはアルレシャとフム・アル・サマカーばかり。
突然そんな話を始めたフムだったが、いつもの笑みとは違う色合いの表情に、私は言葉を挟むのをためらった。
「あの子はどこから来たのかしらね……アルレシャも私も、あの子を放っておけないし、でも信じてるのよ」
本当はあの子が“ひも”なのかもねとフムは小さく付け足した。
「船長にはどうでもいいことだったわね。憶えとかなくていいわ。私がそんなこと言ったなんて、内緒よ」
そんな風にフムはごまかして、私にデッキに戻るよう促した。
「二人が出てってから、アルレシャはずっとデッキで待ってるのよ。さっさと戻ってくれないと、私としても面倒くさいのよね。早くして頂戴」
とんだ言い草だと私が笑うと、フムはどういたしましてとおどけてみせる。
早く戻ってあげないとアルレシャはどんどん機嫌が悪くなるだろう。アルペルグが先にデッキに戻ってしまったらそれはそれはとんでもないことになるだろう。フムが私より先に戻るつもりもないようだ。
私がゆっくりとラピッドスター号の廊下を歩み始めると、フムもそれに従った。デッキに戻ったらアルレシャは開口一番なんと言うだろう。仕事を終えたのだから休んでくださいなどとでも言うだろうか。それとももっと別のお小言でも待っているだろうか。私はそれを想像して口の端が緩むのを感じた。
虚ろな水をおよぐものたちが私の周りを付かず離れず泳いでいる。
彼女たちは人間ではないけれど、人魚や、天女のような彼女たちではあるけれど。
深宇宙の闇から闇へ波紋が広がるように、確かにそこにいることは、救いがあるように思えた。