アカトゥイヤ探訪

「アカトゥイヤ探訪」(「Recollection」寄稿作品・2022年)

一、鉄路

「もし、もう少しでアカトゥイヤに着きますよ」
 ユニは車掌に声をかけられて不安な夢から目を覚ましました。腫れぼったい目をぐしぐしとこすっていると、古い木造の客車が細かく揺れて、規則的にきしんで鳴っているのがわかりました。ユニは火照った顔のまま慌てて車掌に頭を下げると、その様子に車掌は安心したように微笑んでみせました。
「もう少しするとアカトゥイヤに着きますよ」
「アカトゥイヤ、ですか」
「ええ、アカトゥイヤ中央の駅です。おっと、切符は大丈夫ですよ、先ほど拝見しておりますので」
 ユニは席に差してあった切符に手を伸ばしていましたが、それを見せることもできないまま、きゅっと握り締めました。券面にはアカトゥイヤ中央行と濃い銀灰の印字がなされてありました。
「僕はそのアカトゥイヤの駅で降りるのですよね」
 ユニが不安に駆られてそう問うと、車掌は怪訝な顔を見せました。
「そこまでの運賃をいただいておりますもので」
「なんだかそうではなかったような気がしていて。いいえ、申し訳ありません。変な話ですよね、すみません」
「いいえ、お気になさらず。きっと長旅でお疲れなのでしょう」
 車掌は慈しむように笑い、気にすることはないと示しました。
「そうですね、アカトゥイヤというのはどうってことのない港町ですよ。お降りになるお客様はそう多くありませんが、魚がよく獲れる綺麗な町だと聞いております。お客様がどのような御用かは存じませんが、嫌いでなければお食事を楽しむのはいかがでしょう」
「ありがとうございます。そうさせてもらいます。それにしても、そんなに疲れていたのかな」
 ユニは考えなしにそう愛想笑いで返しました。その間にも列車は荒野を抜けて大きく曲がり、車掌が添えるように掴んでいたパイル織の背もたれはきゅっと握られて少ししわになっていました。方角が変わった車窓からは海と太陽が見えるようになり、窓枠の向こうがあまりに明るいものですから車内が薄暗く感じられます。車掌はそれで頃合いに気づいたようで、ユニに丁寧に頭を下げてから去っていきました。逆側の窓にも人家や畑が流れはじめ、煉瓦壁に冠した板張りの屋根が朝露にきらめいていました。
「次はアカトゥイヤ中央、次はアカトゥイヤ中央駅です。お降りの方は荷物お確かめのうえ、お忘れ物などなさいませぬよう」
 車掌の声がくぐもった放送越しに聞こえました。ユニはまだぼんやりとしたままで考えをまとめきれずにいました。
 列車はしばらく町を遠巻きに走っていましたが、もったいつけたように暗い隧道に入ってから、またぱっと明るい平野に出たかと思うと、ようやくアカトゥイヤ中央の駅へ滑り込んでいきました。
 アカトゥイヤ中央駅は、強化硝子と金属で葺かれた開放的な高屋根が特徴的で、ユニは植物園の熱帯の温室を思い出しました。まだ太陽の光は低いころでしたが、斜め向きの窓がうまく構内を明るく照らしていました。列車はごとごとと速度を抑えながら入線していき、前時代風に浮彫の木板で飾られた柱を何本も通り過ぎました。甲高い停止音が用心深く響いて止まったのち、ユニはようやく座席を離れました。

二、菓子屋の女

 ユニが改札を抜けると女性が駆け寄ってくるのが見えました。その人は年のころは二十歳かそれよりもう少し行っているように見えて、まるで昔語りからそのまま飛び出してきたように古風な女中の格好をしていました。梅や桃かの種っころみたいな眼でユニをじいっと見て微笑んだものですから、ユニは思わず頬を染めました。
「ユニさん、お待ちしていました」
「あの、すみません。何かの間違いではないでしょうか」
 ユニは出迎えの彼女に心当たりがなくそう聞き返しました。
「確かに僕はユニと申します。でもあなたのような待ち合わせがあるとは聞いていないのですが」
「そんなことはありませんよ」
 女性はきっぱりと答えました。
「メーレと申します。あなたがこのアカトゥイヤの街を訪れるというので、ご案内することになっています。ええと、先生の言いつけで」
「先生がそんな手引きをしてくださっていたのですか」
「ええ。お聞きにはなっていないでしょうが」
 ユニには全く心当たりがありませんでした。そのように気を回してくれる先生がいただろうかと首をひねりましたが、このようにはっきりと目の前で言われては疑いようもありません。
「どちらにしても、お待ちしておりました。あなたを迎えるために待っていたんです」
 メーレはユニの態度を和らげようとしてかにっこりと笑いました。
「それでは、いったんお泊りのほうまで案内しますので、お荷物を預かりますね」
 そう言いながらメーレはユニの鞄に手を添え、引き受けようとしましたが、ユニはびくりと肩を振るわせて一歩距離を取りました。メーレは残念そうに眉を動かしました。
「ああ、いいえ。失礼しました、見かけ以上にこの鞄は重いものですから。僕自身で持っていくことにさせてください」
「あら、せっかくなのに。わかりました」
 気に病むような様子もなく、メーレはくすくす笑いました。ユニは自分の取る態度が予め見透かされていたような気がして、居心地悪く思いました。彼女はきっととても人慣れしていて、自分のことをからかっているに違いない。そうユニは思いました。
 それからメーレは先導して歩き始めました。メーレはユニが意外に思うほど速足でしたが、親猫が子猫に向かってそうするように、度々止まっては振り返らずに待ち、距離が縮まってから振り返って確かめ、また足早に進んでいきます。メーレのざっくりと切りそろえられた髪にはリボンが結んであって、それが頬の角度の変わるたびに揺れて色合いを変えていました。そのたびにユニはどきっとしてしまいました。
「そうだ、言っていませんでしたね」
 メーレは何度目かにリボンが揺れたときになって、思い出したように歓迎の言葉をくれました。
「ようこそ、アカトゥイヤに」

 二人が駅舎を出たころはまだ商店が開く時刻でもなく、旧式車が徐行するのと新聞屋が行きかうのとくらいの涼しげな様相でした。アカトゥイヤ中央の駅は街の南東部、新市街の端にあります。駅前は石畳敷きで半円状の広場になっていて、列車から遠巻きに見えていた煉瓦造りの家屋が囲うように建ち並んでおり、その隙間から整備された通りが三方に伸びています。歩道には出店の設営だけが既に済まされており、早朝の街灯が照らすのと交互になって規則正しく並んでいました。何かの催しが準備されているようでした。
 ユニとメーレは駅から西北西へ青魚の印の通りを歩き、そこから斜めに小道を入り、小さな菓子屋までやってきました。菓子屋の建物は大まかにはあたりの民家と変わりありませんが、よく掃除の行き届いた真っ白い壁には半月の窓が設けられていて、そこから埃避けの硝子蓋越しに焼き菓子や飴が見えるようになっていました。掲げられた金物の看板には「菓子屋カンロネコ」と書かれていました。
 ユニは首をひねりながら店名を読み上げて、メーレの顔色をうかがいますと、彼女はそれを待っていたらしく自信ありげに笑いました。
「ようこそ、カンロネコへ。こちらの二階の部屋がひとつ空いていますから、自分の家だと思って使ってください。一階では私が店をやっていますから、少し騒がしくしてしまうこともあるかもしれませんけど」
「本当に使ってしまって大丈夫なのですか。僕はその、お礼とか、融通とか、そういったことはできませんが」
「ええ、大丈夫ですよ。そんなにお気になさらず。私としてはユニさんに来ていただけただけで嬉しいんですから」
 メーレは店内を抜けて二階に通じる細い板戸を開け、急勾配の階段を上がっていきました。ユニが通された一室はきちんと掃除の行き届いた板張りで、裏手に向いた薄暗い窓があるだけの寂しい部屋でした。けれど書き物机からベッドまで来客用らしき調度が用意されていて、立派でこそありませんが、厚意で泊めてもらうには上等すぎるとユニは思いました。
「隣は私の使ってる部屋ですから、用がありましたら気にせず開けてくださいね」
 メーレは隣の部屋に続く戸を半分だけ開けて、ユニに中の様子を窺わせました。こちらの部屋と構造はさほど変わりませんが、通り側に向いた窓は少し明るく、青で染めた端切れの飾り物から生活の匂いがしていました。ユニは本当にここを滞在してしまって、彼女に迷惑をかけてしまってよいものかどうか改めて不安に思いましたが、この話を断ったところで当てもないのですから、ぐっとそれを飲み込みました。
「ぜひ使わせてもらいます。ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします」
 メーレはその言葉を聞いて無邪気に喜びました。
「そうと決まれば、鞄を下ろして、まずは朝食に行きましょう。あの列車で着いたならきっとまだ何も食べていないでしょう。近くに屋台が出てるところがありますよ」
 ユニはすっかりお腹が空いていることにいまさらながら気づいてしまい、その提案におずおずと頷きました。メーレもどうやら朝食を取ってはいなかったようで、ほんのり語気が強くありました。

 新市街のほぼ中央にある公園には、早朝から多くの屋台で賑わっていました。漁港の朝らしく魚を使った軽食の売り手が多いことと、西の内陸方面で盛んだという生花の屋台があるため、乾いた塩水とオイル、そして花の匂いが強く漂っていました。
「この町の人々は魚を食べ、花を飾り、あるいは花も食べるんです。外の方からすると少し不思議に思うかもしれませんが、そういうことを大切にしてきました」
 メーレはユニに説明しながら、両手に持ったツナサンドの包みを片方手渡しました。小麦の風味の効いた大判のパンを焦がし目に焼いて、ほぐし身にした魚をたっぷりと挟み、酸味の効いたオイルソースで味付けしただけの簡単なものでした。
「せっかく来ていただいたのに凝った料理でお迎えできなくて恥ずかしいんですが、ここらへんでは朝ご飯といえばこれって言うくらいの定番料理なんですよ」
 メーレは小さな口でツナサンドに挑み掛かりながらユニに教えてくれましたが、食事に没頭する性質であるらしく、ややぞんざいな風にも見えました。彼女が食べ終えて、口の端についたソースを丁寧に拭ってから、その様子をユニが注目していたことに気づき、ごまかすように澄まし顔を浮かべました。
「それで、アカトゥイヤには春祭りを見にいらしたのですよね」
「そういうことになるのでしょうか」
 ユニはどうしてこの街で降りることになったのかまだわからないままでしたため、弱ったような顔をして答えました。メーレはその様子を見て何かを思案するようにしばらく静止していましたが、やがて何らかの結論を導いたように言いました。
「当てのない旅行、いいですね。私も好きですよ、そういうの」
 どうやらそういうわけではないのでしたが、ユニは訂正せずに苦笑いとともに頷き返しました。メーレはおやという顔をしましたが、咳ばらいをして改めて話を続けます。
「春祭りは昼過ぎからになりますから、そうですね。その前にアカトゥイヤのことを知るのに博物館に行ってみることにしましょうか」
「春祭りに、博物館」
 ユニがオウム返しにつぶやくと、メーレはちらりと空を仰いで言葉を探すような様子を見せました。それからメーレは思い立ったように立ち上がり、花の屋台に声を掛けに行きました。ユニが不思議に思いながら様子を見ていると、メーレは一言二言のやりとりだけですぐに戻ってきて、ユニに小さな花束を差し出しました。
「アカトゥイヤに伝わっているおまじないなんです。この花束の中に仕込まれているこの根っこがわかりますか、この根っこの匂いをかぐと、探し物が見つかるとか、忘れたことを思い出すとか、そんな風に言われているんですよ」
 言われてユニが花束を覗き込むと、青々とした野草の一掴みに、確かに薄く灰がかった茶色の根っこが加えられているのがわかりました。決して華やかなものではなく、暖色の花の一つでも加えればもっと違うでしょう。しかしユニは色味の少ない中に荒涼とした美しさがあるように思いました。ユニは何を忘れているのかも忘れてしまったそのままに、それを受け取ることにしました。彼女の指先がひやりと触れました。

三、獣にまつわる話1

 ユニはメーレの勧める通り旧市街の博物館に向かうことにしました。駅から北方にある旧市街へはずっと長く緩やかな登り坂になっていて、遠くには青くかすんだ森林と山並みが見えます。振り返ればアカトゥイヤの街並みがよく見渡せて、ユニはまるで山道に踏み込んでしまったような気持ちになりました。北へ向かうほど石畳は古いものに変わっていき、ユニは歩きにくさを覚えました。とはいえ幸いにも道は素直に続いていましたし、機嫌の良さそうなメーレの先導もありましたから、博物館に着くまで困るようなことはありませんでした。
 アカトゥイヤの博物館と呼ばれているのは旧市街の北にある大きな邸宅の離れでした。屋敷の敷地は北の森林すら含んでいるのでしょう、黒鉄の柵はずっと奥まで繋がっていて全容は窺い知ることができません。博物館と聞いて想像していた様子とはだいぶ違っていましたから、ユニは半ば不安な気持ちで門をくぐることになりました。
「昔、この街で財を成した商人の邸宅なんです。それがいろいろありまして、今は街の共有財産みたいになっているそうです」
 博物館として使われている離れの戸を開けながら、メーレはユニに説明を始めました。この離れは元々来客用として使われていたものとメーレは語りました。黒く塗られた板壁の二階建てで、使い込まれて暗い色になった廊下から、つやつやになった階段の手すりが緩やかに曲がりながら上がっていきます。人を招くために作られた優美な空間でした。階段の踊り場には一枚の皿がさも高価なもののように飾られていましたが、ユニがそれに興味を抱いて寄ってみると、不思議なことに質の良くない古さだけのもののようでした。
「この街、アカトゥイヤは獣にまつわる者たちが集ってできた街と言われています。いつごろからそう呼ばれるようになったのかは定かではありませんが、この屋敷を建てた元の主人がいたころにそう呼ばれ始めたといいます」
 メーレは皿を前にして足を止めて、ユニに向き直りました。

「鉄道が通るよりずっと昔、帆船が行き来していた頃です。アカトゥイヤという街そのものは既にあったそうなのですが、これといった特徴のない小さな漁村だったそうです。北の山にはまだ人が通れる道もなくて、ここを訪れるには南を大きく迂回するしかなかったそうです。海から来ようとするなら別でしたが、漁村が持っている程度の港では、貿易向けの中型船すらまともに停泊することはできなかったでしょう」
「しかしそんな頃、一人の動物売りの男がこの街で財を成しました。彼は穀物を運ぶ小型船に同乗して南方大陸に渡り、そこで猛獣の赤子を仕入れ、アカトゥイヤの北の森で育て、西方の都で売ったそうです。彼は狩猟の腕前こそ未熟だったらしいのですが、獣を見る目とそれを扱う、通じ合う感性においては、抜きん出ているところがあったそうです。なによりアカトゥイヤの森は植生も気候も違う南方の動物さえ弱らせることなく育てることができる豊かな自然でした」
「それを何度か繰り返して男の名声が高まってきたころ、彼の評判を聞きつけて、一匹の獣を飼いならしてほしいという相談が舞い込んだそうです。その獣は誇り高き末裔で、人と馴れ合うことを一切拒んでいました。食事を与えられても最低限しか口を付けず、触れようとすれば猛烈に暴れ、かといって静かに眺めていれば動き一つも見せず、まるで見世物になることを嫌い淡々と時を待っているようだったといいます。本来は美しかった毛並みは乱れきっており、本来ならもっと高価な値が付くはずなのに、そんな有様では売り物にすることはできません。そこで男の腕前を頼ってきたのです」
「男は獣を買い取りました。そしてその難題にのめり込み、できる限りの世話を焼きました。しかし試したことごとくが無意味だったと言います。男が『食事や空気が体に合わないのではないか』と考え、東西様々な獣を買ってその肉を捧げても駄目でした。北方の氷、南方の溶岩を取り寄せて見ても反応はありませんでした。その獣は血溜まりをぺろりと舐めて確かめたくらいで、それ以上の反応はなかったそうです」
「男は『もしかして普通ならば毒になるようなものを好むのではないか』とも考えました。特異な環境に棲む動物にはそういったものもいるそうです。浸食された海岸に潜む有毒の魚、砂漠の洞穴に潜む六つ足の馬、三つ集まると四つに増殖する生ける結晶。男は多くの獣や獣以外のものを手に入れ、獣の気に入るよう加工し捧げました」
「そうこうしている間に男は既に老年に差し掛かっていました。男は長年の無理が祟って病を患い、以前ほど遠くまで旅することもできなくなっていたそうです。ですが、そんな頃になってその獣は遂に男の出した皿を綺麗に食べつくし、彼のために鳴いてみせたそうです。老いた男は獣の檻の中で独りうとうとと眠ってしまっていて、鳴き声に目を覚まして知ったとき、とても満足げに笑ったそうです。獣は最初に見つけられたときの姿からさほど変わることもなく、まだ毛むくじゃらのままでしたが、理性のある瞳をきょとんとさせて、そして、決心したように男に食らいついたと」
「『君に食べられるというなら、それもいい』彼は亡骸すらも残らず、食べ尽くされました。獣もどこかへと逃げ去り、それきり誰も見つけることはできませんでした。男は行方不明として扱われ、屋敷だけがずっと残されることになりました。彼の墓はついぞ作られなかったといいます」

「アカトゥイヤが獣にまつわる者たちの街と呼ばれるようになったのは、そのころからだそうです。この飾られている皿は、そうして遺されたまさにその皿、と言われています。真偽不明のものですけどね」
 メーレは茶化すように笑って、かがんで皿の側面から、底面から、まじまじと眺めるそぶりを見せました。ユニは首をかしげました。
「とても信じられないような話です。けど、それが伝えられているというなら、何か本当のところもあったりするんじゃあないか、そんな風にも考えたいです」
「そうですね。伝説は事実を大げさに言ったものだった、なんてことは多いみたいですから。動物商で財を成して、この屋敷を建てたことはきっと本当のことだと思います。けれど、そんな獣を飼っていたとか、どのように亡くなったのか、そういったことはもう確かめるすべもないのかもしれません。証拠は残っていないみたいですし、何より」
「何より、ですか」
 ユニはメーレが言葉を選んで言いよどんだのが意外に思えて、きょとんとして言葉を返しました。
「その獣が皿しか遺さないほど男を食べ尽くし、この屋敷だけが残されて、獣は行方知れず。だというなら、一体誰が彼の言葉を知りえたのでしょうね」

四、獣にまつわる話2

 メーレの導くままに二階に上がると、赤い絨毯のちょうど中央に白い石づくりの台座があって、怠惰な海生動物か何かが寝っ転がっているみたいに、不格好に白茶けた塊が寝かされているのが見えました。ユニははじめ砂岩か何かかと思って近づきましたが、それは油脂も抜けて風化が進んだ毛皮の塊でした。
「獣の足、前足ですか」
「ええ。これはさっきの話に出てきた、男が入れ込んだその獣、後年再び人の前に現れた際に切り落とされた腕だなどと言われています。こちらもやっぱり本当のところはよくわかりませんし、むしろかなり疑わしいものですけどね」
 メーレは戸棚から小さい懐中電灯を手に取り、その毛皮の塊の陰になった部分を照らしました。かつては白く豊かであっただろう毛並みは完全に埃で固まってしまっていて、黄ばんだ灰色のみすぼらしい見た目になっていました。指や爪のあたりに至っては既にぐずぐずに崩れ落ちてしまっており、残っているところもほとんどありませんでした。
「この獣の足についても、不思議な話が伝わっているんですよ」
 メーレは今度は振り返ることなく、照らした子細な部分をじっと観察しながら語り始めました。

「北の山を切り通して道ができて、今の高速鉄道の前身となる線路が敷かれた頃。記録的な熱波がアカトゥイヤを襲ったある夏のことです。アカトゥイヤの街は鉄道によって栄えるようになっていて、旧市街と呼ばれるこのあたりの地区のほかに、新市街と呼ばれる地区が作られ始めていたころでした。時代としては戦争の影が忍び寄ってきたような頃でしたから、鉄道を防衛するための警備隊もいて、この街でも兵隊の姿は珍しくなかったそうです。そんなとき、この獣の足は盗まれる目にあったんです」
「盗んだのは旧市街に住む売れない絵描きの男でした。彼は毎日飽きもせずこの博物館に通っては、この獣の足を観察していたそうです。博物館には他の収蔵品も、多少は芸術品もあるというのに、それらにはまるで目もくれず、獣の足にだけ執着していました」
「獣の足が盗まれたとき、実はしばらく誰も気づきませんでした。その猛暑の盛りの日、ばたばたと人が倒れるような暑さだというのに、旧市街では更に通り魔騒ぎまで起こりまして、博物館の管理人もそれどころではなかったそうなのです。通り魔は幾人かの不幸な犠牲者を出しましたが、最後には警備隊によって、そう。それから事後の検証で盗まれた足が見つかって、遡る形で盗難されていたことがわかったのです」
「その通り魔こそ絵描きの男でした。そして斃れた彼の肩に本来あるべき腕、人間の腕は付いておらず、代わりにこの獣の足が繋がっていたというのです。解剖を担当した医師が語ったところによれば、縫合こそ素人によるつたないものであったものの、血管や神経は繋がっていた、なんていう話もあります」
「すぐに絵描きの身元の調査が行われ、彼の住居からは獣の足の絵が何千と見つかりました。様々な角度から描いた模写だけではなく、欠けてしまった関節を曲げ伸ばししていたらどうなるのか、毛皮や筋肉を切り開いたらどう見えるか考えたであろう図、持ち主を想像したであろう図も多くあったそうです。それらは荒唐無稽としか言えない気味の悪いものだったそうで、証拠品以上の価値が認められることはなく、焼かれてしまいました」
「男が博物館から獣の足を盗み、さらには己の腕を切り落として繋ぎなおした理由はわかっていません。あまりの暑さに頭がおかしくなってしまったんじゃないか、とは言われていますが、それ以上の理由が実はあったのかもしれません。わかりたくもないような気がしますけどね。ただ、彼の本来の腕、捨てられた人間の腕は、絵筆を握りしめたまま絵具皿に横たえられていたそうです。しかしまともな刃物の一つもなく、どうやって切除できたというのか、誰もわかりませんでした」

「ちょっとした怪談話かもしれないですね。ユニさんは怖いの、あんまり得意でもなさそうですね。それではこちらの話は本当らしいところ、あるでしょうか。どうでしょう」
 メーレは意地悪そうに問いかけました。ユニはあまりにも答えづらく、曖昧な方向に首を振って答えました。
「そうでしょうね。この街に伝わる話じゃなければ、笑って済ませるような話ばかり。博物館に飾られていた腕が人間に繋がるなんてことあるわけない。もちろん繋げようと思うはずもない。たとえ熱に浮かされていたとしても」
 メーレは窓を開けて部屋の空気を換え始めました。ユニは日差しの強さから、博物館に入ってからかなり時間が過ぎていることに気がつきました。
「ユニさんがどうしてこの街に来たいと思ったのか、今更私は聞きませんけど。春のお祭りを観ていくなら、気を付けてくださいね。ここアカトゥイヤはずいぶん獣に捧げられてしまった者たちの街なのだから」
 窓を背にして逆光になったメーレの瞳が、それでもきらりと煌めきました。ユニは恐ろしいものを感じましたが、そういう態度を見せるのも失礼だろうとユニは己を制し、硬くこわばります。きっとふざけていたのでしょう、メーレはすぐに柔和な顔を見せてまたくつくつと笑いました。
「そんなに怖がらないで。そんな顔されると傷ついちゃいます。でも、そういう話がこの街には本当に多いから」
 口直しにとメーレはそれから中世の油絵や壺、装身具などを見せて回りました。しかしそのどれもが歴史的な作品というほどのものでもなく、ちょっとした街の流行り廃りくらいのものばかりであって、ユニの記憶には残らないようなものでした。

五、猫は歩く/猫は飾る

 ユニはメーレに連れられてアカトゥイヤ中央の駅前まで戻ってきました。春の一日、春祭りの夕方、早朝に通ったときからは想像していなかったくらい賑わっています。遠巻きに出番を待つ控えめな笛や太鼓の音が響いてきていて、通りにずっと並んだ屋台では揚げたり焼いたりしただけの簡単な軽食や菓子が売られていました。もちろんツナサンドの屋台も何軒もあり、メーレがちらりと視線をやるのをユニは見てしまいました。
「屋台も気になりますけど、パレードは一番の主役ですから、そっちを見逃したりしちゃいけませんよ」
 メーレはユニの手を引いて雑踏をすり抜けました。これから鼓笛隊と花持ちの少女らが出てきて、西に向けて教会まで練り歩く予定だと言います。
「もちろん格好も演奏も素敵なんですが、見どころはそこじゃないんですよ。ほら、あそこを見てください」
 パレードの開始を今か今かと待っているざわざわした群衆の間、メーレが指さしたのは一匹の猫でした。一匹だけが混ざっているかと思えばそうではありません、建物の影、木箱の隙間、通行人の足元、何匹もの猫がどこからともなくまぎれていました。
「猫、何かおこぼれでももらえるんですか」
「ううん、もらえないこともないけど」
 メーレは首を振りました。ちょうどそのとき、音合わせに聞こえていたパレードの音が急に静まり、そして演奏が始まりました。猫は驚いたようにぴょんと飛び跳ねてからパレードの前に飛び出し、我が物顔で一緒になって歩き始めます。先ほどメーレが指した一匹だけではありません。鼓笛隊のフルートのそばに駆け寄ってすり寄るように足の周りを回るもの、太鼓の後ろを歩いてその打音のたびにぴょんぴょんと上下に動くもの、まるで統一感もなく猫はパレードに参加していきました。ユニは大道芸でも見せられたようににぽかんとしていましたが、メーレはそれを遠慮なく笑いました。観衆と一緒に二人がパレードを追いかけていくと、猫は市街の小道からどんどん合流してゆきその隊列を増していきました。

「ああやって猫がパレードと一緒に歩くようになったのは、いつかの祭の時を境にしてだそうです。その年は冬の明けが早くて、まるで初夏のように暖かかったそうで。猫たちは誰に仕込まれたわけでもなく、自然とパレードの後ろを歩きはじめたそうです」
「その夜、旧市街で酷い火事が起こりました。普段より暖かかったこともあってか、海風に煽られた火勢はあまりに強くて、少なくない死傷者も出たそうです。ところが、教会で祭の夜を楽しんでいた猫たち、それが気になって連れられるがままとなっていた猫の飼い主たちは、揃って難を逃れることになりました」
「その話は猫の未来予知として新聞で大きく取り上げられ、一時はたくさんの記者がアカトゥイヤを訪れました。でも、猫のことです。話が聞けるというわけでもなく、しばらくすれば話題にも上らなくなっていきました」
「しかし翌年になって、猫たちは再びパレードの後ろを歩きました。町の人々は何かまた良くないことが起こるのはないかと恐れましたが、結局のところ何も起こりはしませんでした。翌年、翌々年となっても、猫はまた付いて歩くようになりました。それからはずっと続くようになり、もう猫が未来予知をするなどと言う人はいなくなりました」
「今年もまたパレードの後ろを猫が歩み、その後ろを飼い主が追いかけているんです。教会では猫用のご馳走も用意するようになって、この日ばかりは猫の粗相も多少は目をつむってもらえます」

「猫は本当に未来を予知できるのだけれど、そんなことがわかれば人間はそれを利用したがる。猫は利用されたくなんてないから、ごまかすために翌年も歩くことにした。そんな風に言う人もいますね」
 猫のスピードに合わせてゆっくり進むパレードを追いながら、ユニは本当にそういうことなのか、ご馳走目当てなだけなのか、考えてみました。ちょうどユニの隣を一匹の猫が歩いていましたので実際のところを聞いてみようかとも考えましたが、どうせ返事を聞くすべはありませんでした。
 それから小一時間ほどをかけてパレードは西アカトゥイヤの教会に辿り着き、そこでお開きとなりました。鼓笛隊や花持ちの少女らは一目散に屋台の酒盛りの場に紛れ込み、既にいたるところで勝手気ままに演奏をし始めました。パレードに付いてきた猫たちは誰に導かれるでもなく教会の庭に散開し、思い思いにくつろぎ始めていました。

 この教会には変わった女神像があるというので、メーレはユニを聖堂に案内しました。その巨大な女神像は聖堂に入るとすぐに来訪者を見下ろすように立っています。女神像は肉感的な様式のありふれた石像に見えましたが、ただ一つ、わざわざ別に取り付けた黒のヴェールでその顔を隠していました。
「今でこそここは教会として使われているのですが、元々昔は土着信仰の神殿だったそうです。何度も直されたことで原型はあまり残っていないみたいですけど」
 ユニは教会の作りに詳しくはありませんでしたが、メーレの言った通り、大変古い石積みの建築であることはわかりました。柱の隙間に細く開けられた開口部には硝子すら入っておらず、差し込む光は朧気で、件の女神像を照らす光もわずかなものでした。
「あのヴェールが気になるでしょう。いつも掛けられているんです」
 薄暗がりということもあって細工までは見てとれませんでしたが、彫金で飾られた額当てから刺繍を施した滑らかな布地が垂れているさまは、ユニにもきっと上等なもののようだとわかりました。
「なんだか後から付け加えたもののように見えるのですが。やけに新しく見えます」
「ええ、このヴェールは元々この像に付いていたものではないんです。ヴェールがかけられるようになったのはそんなに昔ではなくて、ちょうど鉄道が開通したくらいのこと。ある朝、それまでなかったはずのヴェールが突然掛けられていたそうなんです。もちろん、その時はいたずらとしてすぐに取り外されたんですけど。悪戯にしては立派すぎるものだったのでみんな不思議がったってことなのですが、誰が作り、誰がかぶせたのか、それはわからなかったそうで」
 ユニは体を傾けてヴェールを覗き込むように見ていましたが、メーレがそっとその視線に割り込んで、にっこりと笑いました。
「その次の日のこと、外してしまったはずのヴェールは女神像に戻されていたんです。もちろんまた外したそうなんですが、そのまた翌日には戻ってしまう。見張っていても、立ち入り禁止にしても、それでもいつの間にか戻ってしまっていたそうなんです。いつしか女神像にはヴェールが掛かっているのが当たり前みたいになって、みんな諦めてしまいました、と」
 かくして像はこのようになっているとメーレは言いました。
「交換するくらいなら大丈夫みたいで、数年に一度、パレードのときに合わせて新しくしたりしますよ。今掛けていらっしゃるのはさっき交換したばかりのものです」
「なるほど、だから綺麗なものなんですね。ちょっと浮いているような気もしますが」
 ユニはメーレから女像に視線を戻し、ヴェールの裾から見える頬の稜線を見て思いました。あんなに美しい顔をしているのに、隠すのは少しもったいなくないだろうかとユニは感じました。
「さっき、元々昔は土着の神殿だった、と言いましたよね。一説にはですよ、あの女神の顔は元々あった本当の顔ではなく、載せ替えられた偽りのもので、だから人に見られるのが恥ずかしくて堪らなかった。そんな風にも言われているんです」
 メーレは説明を終えるとユニと同じように像を見上げました。
「ユニさんはどんな顔だったと思いますか。どんな顔だったら嬉しいでしょうか」

六、食肉目の女

 西アカトゥイヤの教会の庭は、普段から出入り自由になっています。というよりも、囲っている柵も石塀も曖昧なもので、隣の民家の庭との境目すら判然としないのですから、出入りするくらいなら誰も咎めないというほうが正しいのでしょう。特に今日はパレードの日ですから、祭の喧騒に疲れた人々や猫がそこかしこで座り込んでいて、和やかな空気が流れていました。どこを見ても猫がいるのが目に入るような状況で、ユニが座る長椅子の下にも黒猫が一匹隠れていましたので、メーレがちょっかいを出していました。
「ユニさんは猫がお好きですか。こんなに猫に囲まれてから聞くのもなんですけれど」
 メーレは黒猫で遊ぶのに飽きたようでユニの隣に座り、尋ねました。遊ばれていた黒猫はぱたぱたと距離を取り、メーレの様子をちらと伺ってから駆けていきました。
「可愛らしいとは思います。美しい生き物だとも思います。でも僕が猫を好きかどうかと聞かれると途端によくわからなくなってしまいます」
「よくわからない、とは」
「嫌いじゃないんです。猫を見ていると嬉しい気持ちになるとか、楽しい気持ちになるとか、そういうことでなら、僕は猫という形が好きなんです。でも果たして僕が好きって言ってしまっていいものなのか、申し訳がなくて、わからないんです」
 メーレは首を傾げ、ユニが次の言葉を発するのをゆっくりと待ちました。
「そんなこと言われてもわからないですよね。思い出話になるんですが」
「ええ。話したくないことでなければ、いくらでも」
 ユニは緩慢な動作で見回し、教会の門の脇にちょこんと座っている猫を示しました。メーレはその猫をちらと見て、すぐに視線をユニに戻しました。
「ちょうどあそこにいるみたいな、茶色か金色かみたいな、きらきらした毛並みをしていた猫でした。僕の家ではずっと猫を飼っていたんです。僕より年上の猫で、耳も鼻も整った三角をしていて、ちょっとくすんだ色の目をしていて、手足や首は簡単に掴んでしまえるくらい細くて、眠るとき以外はいつだってちょっと険しい顔をしていて、ふんふんと鼻を鳴らす癖があって。そんな猫だったと思います」
 メーレは頷き、真剣そうな顔でじっとユニの横顔を見ていました。
「僕はその猫にどう接していいかわからなくて。猫って、僕らよりずっと強いようなところもあれば、ずっと弱い生き物でもあるじゃないですか。不意にじゃれてきて、懐いてくれるのかなって思ったら急に態度を変えて、爪を立てて離れていく。僕が触ることを嬉しがるし、嫌がりもする。僕のことを気に入っていたのか、嫌っていたのか、結局よくわかりませんでした。それがなんだか怖くなってしまって、僕はずっと遠巻きに見てるだけになってしまったんです。可愛いだなんて大人に合わせて笑ったりしていましたが、触れるのが怖くなって、撫でることすらしませんでした」
「きっと、撫でてほしかったと思いますけど」
 メーレはぽつりと呟きましたが、それ以上何も言うつもりはないようでした。
「そうでしょうか。そうだったらいいですね。でもそうだったら、僕はとんでもなく悪いことをしてしまったんだなって思います。それを取り戻す機会はもうないんですから」
 ユニの言葉にメーレはしばらく何も言いませんでした。ユニはメーレの様子を恐る恐る伺いましたが、なんだか泣きそうになっていると見えて不思議に思いました。
「私、お茶を買ってきますね。歩き詰めでしたし、もう少し休んでいきましょう」
 メーレはそう言ってぱたぱたと通りのほうへ駆けていきました。ユニは謝意を伝え、彼女が教会の門の角をいなくなるまで見送っていました。
 これだけ猫がいるのに一匹だって鳴いているのが聞こえないんだな、ユニはふとそんなことを考えて眩暈を覚えました。長椅子から立ち上がると、あたりにいたはずの人はみないなくなっており、猫もいなくなっていました。西アカトゥイヤの教会の向こうから、だいぶ低くなった日差しが差し込んでいます。ずっと聞こえていた酒場からの喧騒も今は聞こえてきません。あたりはただしんと静まっていました。
「メーレさん」
 ユニは不安になり、教会の門からあたりを伺いました。あれだけパレードとともにやってきた観衆すらおらず、通りには屋台が道具だけを残して置き去りになっていました。
「メーレさん、どこですか」
 どうやらただ事ではない空気に、ユニは通りをパレードが行ったのと逆方向に歩き始めました。しばらく歩くと一人の女が立っているところにたどり着きました。ユニは声を掛けようとして踏みとどまりました。確かに彼女はとてもよくメーレに似ていましたが、服装はまるで違って、凄絶な雰囲気も彼女らしいものではなく、別人でした。

「女は獣でした。だから食らう必要がありました。より強きものに従い、より畏きものにへつらい、より大きなものを愛する必要がありました。彼女はそれを疑うことはありませんでしたし、仮にもしも疑ったとして、何ができたでしょう」
「ある時のこと、女は気まぐれから獲物を弄んでいました。それはほんの戯れのつもりであって、その獲物が瞳に宿した知性の光に興味を抱いたからでした。彼女は牙を立てる前に、最期の言葉が何かないのか訊ねました。女の問いかけに、その獲物は弱くも明朗な答えを返しました」
「『あなたにそれを伝えたところで、一体何になるというんですか。僕はあなたの血肉になるだけだろう。僕がここで何を言ったところであなたの心に刻まれるわけでもない。忘れ去られるだけだろうに』女はそれに失望し、その獲物を速やかに殺して食らいました。それから彼女の暮らしが変わるようなこともありませんでした。むしろ成熟し、一層強くしなやかになり、残酷になったと言ってもよいものでした。彼女は獣なのだから、その生き方を全うしているだけのことでした」
「ただ一つあえて記すとするならば、夜に不意に目を覚まし、月を見ていることが増えていました」

七、カンロネコ

 ユニはベッドから身を起こしました。暗い部屋でした。明かりと言えるものは書き物机に点けっぱなしで残されていた室内灯くらいで、窓からは光も差しこんでおらず、部屋の隅は照らしきれないまま闇にぼやけてしまっていました。ユニの鞄が朝に置いたのと同じ位置にあるのを見て、ユニはここが菓子屋の二階部屋だと気づきました。そう認識してから改めて見回すと、板張りの内装、書き物机の様子にも見覚えがありました。
 しばらくユニは身を起こしたままでぼんやりしていましたが、自分がどうしてここに寝ていたのかもわからず、メーレがどうしたのかもわからなく、記憶が断絶していることに居心地の悪さを覚えました。堪らずベッドから降りて部屋の外を窺ってみましたが、隣の部屋にメーレはいないようでした。代わりに階下から明かりが反射してくるのが見えたため、ユニは階段を下りることにしました。
 メーレは菓子屋のカウンターで作業をしていました。手元だけを小さな蝋燭で照らし、窓から差し込む月光だけを頼りにしている様子は、青白くてどこか不気味さを感じさせるものでした。ユニが階段が軋ませた音に気づかないはずはないでしょう、しかしメーレはユニが声を掛けるまで作業を止めず、黙って待っている様子でした。
「メーレさん、大丈夫ですか」
 ぴたりと作業する手が止まり、メーレはユニが降りてくるのに目を向けました。嬉しそうな顔をしているようで、どこか取り乱したような気配を漂わせていました。
「ユニさんこそ。ここまで運んでくるの大変だったんですから」
「それは、その、すみません。でも一体何があったのか、よく覚えていないのです」
「それはそうかもしれませんね。私が戻ってきたとき、ユニさんは教会の前で倒れてらした。私が言えるのはそれくらいです」
「倒れて、ですか」
 メーレはユニの疑問に答えを返すことをせず、手元の作業に戻りました。返答を拒絶しているようで、ユニはそれ以上追及するのが申し訳なくなりました。何か別の話題はないものか、ユニはメーレが何の作業をしているのか覗き込みました。どうやら焼き菓子を小さな紙袋に一つ一つ収めているようでした。
「ふふ、気になりますか。これは『カンロネコ』です」
「『カンロネコ』」
 菓子屋の名と同じ名前を聞いて、ユニは首をかしげました。
「ええ。この店の名前と同じで、一番のお菓子が『カンロネコ』という名前なんです。本当は店の名前のほうが後ということのなるのですけど」
 メーレは猫の形の焼き菓子を一枚手に取って、蝋燭の明かりに照らしてユニに見せました。それからにっこり笑って差し出しました。
「甘いものはお好きでしょう。もしご気分が悪くなかったり、あるいは嫌でないなら、お一ついかがですか」
 ユニはその言葉に甘えて、焼き菓子を受け取りました。掌に載せてその細工をまじまじと見ると、猫の形の焼き菓子の上にきらきらと金色の針のようなものがちりばめられていて、角度を変えるとその光り方を変えました。
「表面についているのは飴細工ですか。鼈甲飴とかそういう」
「ええ、そうです。バタークッキーを猫の形に焼いて、そこに飴細工の糸を細かく砕いたものを定着させるんです。何も難しいお菓子じゃありません」
「なるほど。でも綺麗なお菓子だと思います。いただきます」
 ユニは食べてしまうのがもったいないように感じましたが、意を決してちょうど猫の前足をかじりました。バターの香り柔らかく、ユニは焦がした糖の苦みを感じました。

「ずっと前のアカトゥイヤに一人の女がいました。彼女は百の罪を重ねた悪人でしたが、決して平穏なものではなかった往時のアカトゥイヤで暮らすには仕方がないものでもありました。しかしあるとき、彼女は仕掛けられた罠を見抜けず、下手を踏み、かつて騙した商人に捕らえられてしまったといいます」
「その商人は女からカンロネコなる幻獣の肉を買っていました。カンロネコの金の毛はネズミの毛よりも細く、針のように鋭く強靭で、太陽に照らせば黄金に透き通して輝きます。花の蜜を愛するカンロネコの肉は大変柔らかくて骨離れも良く、微かに残る蜜と香草の匂いが如何なる料理にも相性が良い。女はそううそぶくことで、安い屑肉を商人に売り付けていたのです」
「商人は女に言い表せぬ様々な仕打ちを与えましたが、女は悲鳴の一つもあげませんでした。そしてその高潔な態度がいっとう商人を怒らせることになりました。怒り狂った商人は、彼女に貴重な資料を叩き付け『そんな幻獣はどこの伝承にもなかった、嘘偽りだ』と罵りました。その言葉を聞いてようやく女は不満の感情を見せ、口を開きました」
「『確かに私は貴方を騙しましたが、その獣は本当にいるのです』彼女の物言いに、商人は怒りを通り越し、頭が真っ白になりました。それならば証拠を見せてみろと返すことしかできなかったそうです。彼女はその財産と命、知人の名誉全てを引き換えとし、カンロネコなる架空の幻獣を商人のもとに持ち替えることを約束しました」
「それから女は期限いっぱいまでかけ、カンロネコの証を持ち帰りました。それがこの菓子でした。この焼き菓子を飾る針こそは本物のカンロネコの毛であると女は語り、仕打ちを与えた時と同じ冷たい目で商人を睨みました。どう見たところでそんなものではない、ただの飴細工ではないか。そう商人は思って女を殺そうとしましたが、結局こんなことを言う相手を殺すなど馬鹿馬鹿しいと取り止めにし、代わりに一つ制約を科して済ませることにしたそうです」
「アカトゥイヤの街に菓子屋を開き、これを売り、繁盛させ、子孫の代まで売り上げを捧げること。カンロネコが本当に伝説のものであるなら、それくらいはできるはずだと」

 メーレはそこまで言ってユニの反応を待ちました。ユニはもう一口、カンロネコを食べて嚥下し、それからなるほどと頷きました。
「本当のところ、私がどこかの商人さんに売り上げを渡してるとかそういうことはないんですけどね。この店がそうだったことも私の知る限りはありませんし。お話はお話、ということなのでしょう。儲かってもいませんけど」
 それは大丈夫なのだろうかとユニは思いましたが、メーレは作業の続きに戻っていましたから、わざわざ言うこともしませんでした。ユニはカンロネコの残りをゆっくりと食べながら彼女の作業を眺めていました。作業はそれほど時間がかかることもなく、すべてのカンロネコを紙袋に収めて硝子戸に収めてしまうと、メーレは溜息をつきました。

八、猫の小瓶

 翌朝になって、メーレはユニにこの街を発つよう伝えました。突然のことにユニは驚き戸惑いました。本当ならもうしばらく滞在させてもらい、できることならメーレと一緒にこの街を回ってみたいと思っていましたから、その指示を素直に受け入れる気持ちにはなれませんでした。しかしメーレは指示を頑として変えることはありませんでした。
「この街の空気はたぶんユニさんには悪いものなんです。昨晩倒れられたのもそうで、このままユニさんが街に滞在を続けていたら、きっと良くないことになってしまう。私はそれは望んでませんから」
 ユニはメーレの言ったことがよくわかりませんでした。気候か、風土病か、そういったもののようには思われませんでした。しかし彼女が意見を曲げるつもりがなさそうであること、必死に説得しようとしていた表情を見れば、それがユニのために下した決断であろうことは痛いほどよくわかりました。恐らくは教会で垣間見たメーレによく似た女性ともきっと関係があったのでしょう。
 そうして半ば押し切られるようにして、ユニは鞄一つの荷物を片手に、アカトゥイヤ中央駅まで戻ってくることになりました。そうは言っても昨日の今日ですから、景色に代わり映えはありません。しかし中から見ると温室かのように見えた硝子の高屋根は、街の側から見ると遺跡か何かのようにも見えました。ユニが乗ることになった朝の列車はまだ着いておらず、時間までしばらく余裕があるようでしたから、ユニとメーレは駅舎の中にあった小さな喫茶室で待つことにしました。そこでユニは珈琲を、メーレは悩んでから大変に甘くした珈琲を注文しました。
「アカトゥイヤでの観光はいかがでしたか、ユニさん」
 メーレは湯気を立てる珈琲が冷めるのを待ちながら、ユニに聞きました。先ほどから珈琲に取り掛かりっきりで、やはり食べ物を前にするとそちらに意識が行ってしまう癖があるようでした。
「興味深いものをいくつも見せてもらうことができました。普段はしない話もしてしまいましたし。残念ながらゆっくり見て回ることは、できませんでしたが」
「ええ。急に出発することになって、そんなこと聞かれても困っちゃいますよね」
 ユニの言葉にメーレはしゅんとしぼんで見せて、珈琲の湯気をふうと吹きました。
「追い出されるようになってユニさんが不満だろうこと、それはそうです。わけのわからないことを言う女だと思ってくださって、私はそれで構わないんです。ですが」
 メーレは珈琲が冷めたと見て、恐る恐る手に取りましたが、どうやらまだ彼女にとっては熱いらしく再び机に戻しました。口元に持っていったのに唇すら付けなかったあたり、既に取っ手の時点で熱かったようでした。
「私が言っていいこと、言っちゃいけないことがあります。だから、列車が着くまで少しの間、ちょっとした思い出話をさせてもらっていいですか。昨日ユニさんのは聞いたのだから、今日は私の」
「ぜひ。思い出話というにはお恥ずかしいものでしたが」
 ユニは言い回しに首を傾げながらそう答えました。メーレは列車が入ってくるだろうほうの窓を見て、確かめるように頷きました。

「それは確か、ずいぶん前の春の日のことだったと思います。私が菓子屋の物置の整理をしていると、見覚えのない瓶が出てきたんです。あの菓子屋、歴史だけは長いですから物置も散らかっていて、知らないものが出てくるなんて当たり前なんですけど、かといってお酒だかなんだかの瓶、取っておくにはあまりいい環境じゃなくて。不思議に思ったんです。瓶は長いこと取りだしていなかったようで、埃に曇っていて瓶は見えず、傾けてみると黒い物体が詰まってるようだったんです。傾けてみても揺れるような様子もなくて、ましてや液体、お酒のようでもない。私は興味が湧いてそれを店まで持って帰りました」
「明かりを近くで照らしてみたんですが、中に入ってるものが黒いってことくらいしかわからなくて、これ以上見ていてもよくわかりませんでした。開けていいものなのかわからないのでどうしようかとは思ったんですが、意を決して栓を抜いてみると、中の黒いものがもぞもぞ動いたんです」
「なんだ、これは何が入っているんだ。私はちょっとわくわくしながら瓶の口を覗き込むと、突然、瓶の口からが黒くてふさふさの長細いものがでろりとはみだしたんです。私は呆気にとられ、それが瓶の先で左右に揺れるのをしばらく眺めていました」
「これは、猫の尻尾じゃないだろうか。私は直感しました。酒瓶から垂れるそれは、しばらくは左右に揺れていたのですが、次第に大人しくなりました。どういう理由で瓶から尻尾が生えたのかわかりませんが、猫の尻尾なら怖いことはありません。試しに触れてみると、艶やかな毛並みとその奥の柔らかい感触が伝わってきました。これは間違いなく猫の尻尾だ、私がそう確信するのと同じくして、尻尾のほうも触れられたことに気づいて、再びぶるりと左右に揺れて私の手をはたきました。それからにゅるにゅると酒瓶の中に戻っていきました」
「それから猫の尻尾は酒瓶から出てくることがなくて、なんだったのか、結局わかりませんでした。ところがその夜、私は父にこっぴどく叱られたんです。どうやらあの瓶で遊ぶのはいけないことだったらしくて。父は一通り怒ったのち、それとは別の瓶を持ってきて、遊ぶならこちらにしろと私に告げました。その瓶は件の酒瓶より一回り小さくて、栓を開けると金色の猫の尻尾が出てきました。私が恐る恐る触れると、背中のあたりがこそばゆくてたまらなかったんです」

「それはつまり、尻尾が」
「さて、どうでしょうね。後で見せてあげます」
 メーレは意地悪そうに笑うと、それから改めて珈琲に挑み、やっと一口飲みました。ユニは彼女が再び珈琲と格闘するのを黙って眺めていましたが、不意に流れた列車到着の知らせに視線を逸らしました。

 アカトゥイヤ駅のホームは、木彫を活かしながらも新しい建物です。硝子屋根からまださほど高くない日の光が落ちてきていて、時刻に従って浮き彫りを照らし、きっと夜には遡るように電灯が陰を形作るのでしょう。ユニはその光景も見ておきたかったなと思いました。油断なく常に近代的であり、懐古的であって、好感を抱かせる駅舎でした。じきに発車の合図が鳴り、メーレはユニの手を取って、それから握手をしました。
 ユニは列車に乗りこみました。広く快適な窓を隔ててメーレが見え、その手を遠慮がちに振っているのにユニは同じくして応えました。すぐに戸が締まり、緩慢な動きで景色が動き始めると、ユニはごくわずかに均整を崩しました。その刹那のこと、菓子屋が立っていたその場所には、一匹の金茶の色の猫が座っていました。メーレは振る手もなく、じっと座してユニを見つめていました。
 悪夢を見て飛び起きるようにユニは窓に張り付きました。そして彼女の姿が流れていくのを追いました。しかし鉄道は荒野に放たれ、隧道に滑り込み、それきり見えなくなりました。いまや、ユニは窓に写る自分の顔だけを見ていました。

九、アカトゥイヤ探訪

「もし、切符を拝見いたします」
 ユニは車掌に声をかけられて悲しい夢から目を覚ましました。腫れぼったい目をぐしぐしとこすっていると、客車が規則的に線路を踏み越えているのがわかりました。ユニは火照った顔のまま慌てて車掌に頭を下げると、その様子に車掌は安心したように微笑んでみせました。
「切符を拝見いたします」
 ユニは席に差してあった切符を車掌に見せ、認められて丁寧に頷かれたのち、自分でもじっと見つめました。
「ありがとうございます。良い旅を」
「車掌さん、僕はそのアカトゥイヤの駅で降りるのですよね」
 ユニがそう問いかけると、車掌は怪訝な顔をして答えました。
「アカトゥイヤというのはどこの駅のことでしょうか」
「いいえ、ありがとう。なんでもありません」
 ユニは車掌に頭を下げて、切符をくしゃりと握りしめました。おかしなことを言うお客だと、車掌は思ったでしょう。きっと長旅で疲れているのだろうと。ユニは足元に置かれた猫用のケージの上に小さな花束が置かれていることに気づきました。ユニはそれを切符と一緒に手に取って、項垂れたままじいっと考えます。
「探し物が見つかるとか、忘れたことを思い出すとか、そんな風に」
 青々とした野草の一掴みに、確かに薄く灰がかった茶色の根っこがありました。決して華やかなものではなく、暖色の花の一つでも加えればもっと違うでしょう。
 ユニは得心しました。アカトゥイヤ、それが獣に捧げられた人々の迷い込む街であること。自分が誰によって捧げられたのかを。それからカンロネコの焼き菓子の甘味を思い出しました。ああ、私はまたいつかアカトゥイヤに戻ってくることになるだろう。彼女にまた出会うために。かの地の食べ物を、物語を、口にしてしまったのだから。幾人もの先人と同じように、あの邪な地へ。猫の飼い主は思いました。