「ブラックラビット・クロス・トゥ・ホワイトラビット」(「ニンジャスレイヤー」二次創作)
トリイ・ゲートを起点として参道に立ち並ぶ屋台。等間隔に設置されたLEDチョウチンが夜気を照らし、煎ったマメの湯気がユーレイめいて人影を揺らす。「LAN飴細工」「タコ=サン・ソバ」「激しい辛味」などと記された屋台ノレンの数々には人々が絶えることなく出入りしている。
ネオカブキチョの一角、小さくも由緒正しいジンジャ。今夜もマツリが執り行われている。江戸時代には既にここで行われていたという歴史あるマツリだが、その発祥は既に喪失している。人々は誰もこのマツリの意味を知らないが、それでもマツリを開き、幸福をブッダに祈るのだ。
「カッコメー!」カカカン!「ヨッソラー!」電子ヒョウシギの軽やかな合いの手をはさみ、半裸の男たちの勇壮な掛け声が響き渡る。五穀豊穣、商売繁盛を祈る古めかしいチャントだ。「モイッチョ」カカカンイヨォー!「カッコメー!」
一人の男が防重金属酸性雨コートを翻して通り過ぎる。男は実際リアルヤクザめいた屈強な身体を持ち、顔はマフラーでほぼ覆われており、鋭い目が印象的であった。威勢を上げていた男たちは水を注されたように一瞬不満げな顔を浮かべたが、騒ぎを恐れて慌てて道を開けた。
男はジンジャ・カテドラルに通貨素子を収め、ブッダにオジギと祈りを捧げた。「イヨォー」カテドラルの両脇に立つ威圧的なリキシ像が電子音声で掛け声をあげた後、鈴を鳴らした。「モイッチョ」参道では気を取り直した参道の男たちが改めて騒ぎ出す。「モイッチョカッコメー!」
たっぷり数十秒の間、男はオジギの姿勢を保っていた。「アリガト!」オジギの終わりを感知して、リキシ像が電子音声を発した。威圧的なリキシ像が不似合いな電子マイコ音声で提案する。「野外宴会バーでオサケはいかがですか」
男は応えなかった。代わりにジンジャ敷地内の野外宴会バーを見やり、フーと息を付いた。端々が黒ずんで薄汚いPVCテントの中に、合成サケを浴びるように飲む赤ら顔が見え隠れする。排気口からトリとタレが焼ける香ばしい煙が漏れており、まるで昇り竜めいて天に消えていく。
もし男を注視していた者がいたとすれば、目を疑ったことだろう。威風堂々と見えヤクザ然とした男が、息をついた一瞬だけ消失したのだ。彼の応答を律儀に待っていたはずのリキシ像がプログラムをエラー終了させられたらしく、男のことを諦めて次の参拝者に電子音声を発する。「イヨォー」
しかし、彼が消えたのもほんの一瞬だけのこと。元の存在感を取り戻した男は、速やかにジンジャ・カテドラルを去っていった。誰の目にも留まらず、印象にも残らず、騒ぎにもならない。ただ、マフラーが煎ったマメの臭気を受けてゆっくりとなびく。
ニンジャスレイヤーをよく知る読者諸氏ならばお気づきであろう。彼はヤクザではなく、ましてやサラリマンでもない。ニンジャである。その男、モリブは、ジンジャ敷地の裏手、ネオカブキチョの更なる暗部へと迷いなく進んでいった。
ネオカブキチョにはニチョームをはじめ多くのストリートがあり、ストリートごとに特徴ある享楽施設が立ち並ぶ。どこも治安が良いとは到底言えないが、中でも特に空気が淀み、歴史から取り残されたストリートが幾つかある。忘れられた旧時代の建築物が林立し、ネオンよりずっと暗い明かりが点る。
このストリートは暗く、通行人は少ない。「ペケペケロッパ、ペケロッパ」質の悪いLANケーブルにまみれたペケロッパ・カルトが歌いながらモリブを見て、楽しそうに笑った。素面ではあるまい。ダストボックスに顔を突っ込んで横たわるスモトリ崩れが「チャンコ」と呻いた。
ストリートの住人は古いビルディングから極力出ようとしない。出るとしてもコートのフードを深く被り、明るい時間に足早に用事を済ませるのが決まりだ。闇に沈んだこの時間帯とあっては、せいぜい点数稼ぎの悪徳マッポが徘徊している程度だ。
バー「サンズイな」はそんなストリートの一角にある。電子戦争よりもずっと以前に建てられたままのバラック建築の酒場であり、小人の穴倉めいて細く薄暗く、そして衒学趣味に満ちている。申し訳程度に付けられた看板には「古いが心意気は新鮮」と書いてある。
「ドーモ、モリブ=サン。イクラ・サケです」「ドーモ、マスター=サン」モリブは小さく会釈してグラスを受け取った。ショットグラスに蛍光黄緑の液体が満たされ、立方体のルビーめいたイミテーション・イクラキャビアが沈んでいる。モリブは一口でそれを飲みきった。「もう一杯」
「モリブ=サン、また厄介ごとですか」店主はグラスを引き上げながら言った。モリブは頭を振った。「いや」「そうですか。モリブ=サンがイクラ・サケをイッキするときはだいたいネオカブキチョで事件があるときですから、心配になりました」
再びイクラ・サケがカウンターに出される。イミテーションで格安とはいえ、それでもイクラ・サケは実際値の張る嗜好品だ。もう飲めないかもしれないと考えたときだけ、モリブはそれを飲みに来ている。モリブは苦笑した。「昔を思い出してセンチになっただけだ」「そうですか」
店主は追求しなかった。客が話し始めれば別だが、マスターからは聞かない決まりだ。ここ「サンズイな」はこじんまりとした隠れ酒場であって「楽しいことしよう」がルールだ。客は現実から逃避するためにここに来るのであって、バーの扉の外のことは、深く聞かないのが礼儀なのだ。
「そう、つまらない話だ」モリブは呟いた。店主は黙って頷いてから、グラス拭きの仕事を再開する。モリブの視界にはゆっくりと動くマスターの手つきと、フィラメント・ボンボリの明かり、黒地のアラベスク・フスマ。マスターが買い付けてきた怪しい骨董品の数々。
アラベスク・フスマが古めかしいフィラメント・ボンボリの不安定な光に波打つ。赤で描かれた模様がミミズめいてのたうち回るのを見ながら、モリブはつらつらと思い出す。彼の曰くところ「つまらない昔の話」を。
「ユウジョウも愛もたぶん少しあれば十分~」退廃的なレトロ・エレクトリック・ポップスがスピーカーから流れている。
--
モリブはかつてネオサイタマ市警のマッポだった。末端マッポの類に漏れず過剰勤務こそ常ではあったが、それでも彼は充実した日々を送っていた。モリブは寡黙で不器用な男ではあったが、信頼のおける上司の下で働くのを実際楽しんでいた。その上司が無二の親友ともあれば、なおさらだった。
親友であり直属の上司、ハムマツ・タマシ。ネオサイタマでは珍しく溢れんばかりの正義感を持ち、不正を許さず、何より優しい男だった。モリブとハムマツはハイスクール以来ユウジョウを育み、コンビとして市警への道を選んだ。モリブはいつだって道に迷うハムマツの相談に乗り、彼を肯定した。
ハムマツはモリブより実際有能であった。不正を容認するマッポからはツチノコめいて憎まれたものの、一部のデッカーから可愛がられ、守られもした。すぐにハムマツはモリブの上司となったが、モリブは羨むこともなくただ嬉しく思った。ハムマツは素晴らしい男で、モリブの誇りだった。
その頃のハムマツには、毎朝の日課があった。泊り込みのマッポが仮眠から目を覚ます頃、ハムマツ自身の仕事を始める前に、仕事で知り合った浮浪者たちにメッセージを送るのだ。送るメッセージの数は年々多くなっており、モリブが見るに、既にハムマツの限界を超えつつあった。
メッセージの内容は何気ない時候の挨拶からはじまり、働き口の話など堅苦しい話もそこそこに、コケシマートの実際安い情報が書かれたりという他愛もないものだ。浮浪者たちの多くはスラムの孤児であったから、生活の役に少しでも立つようにとの願いを込めてのことであった。
IRCメッセージさえ受け取れない者には、古式ゆかしいオリガミ・メールを送った。かなりのメールは不通のまま闇に葬られたが、稀に返事が返ってくるたびハムマツは無邪気に喜んだ。時にはコケシマートで一緒に買い物をし、こっそりフライド・スシを振る舞うことさえしていた。
あの日の朝にも、ハムマツは喜んでいた。すべてが崩壊した日、モリブがニンジャとなったあの忌むべき日にも。
--
「モリブ、重点インシデントだ! こないだ刑期を終えたナシキ=クンからお礼のメールが来たんだ。今はオムスビ・スシのフェイク・イタマエをやってるそうだ」モリブが仮眠室から出てくるなり、ハムマツはオリガミ・メールを見せ付けた。丁寧なワザマエのチャイルド・イーグル。
ナシキ少年の出世は大変な吉報だった。ひとたび罪を犯した少年が、真っ当な仕事に戻ることは実際ごく少ない。マッポーの世、ネオサイタマでは一度落ちたら這い上がれないのが常だ。かつて「棚からオハギが落ちて床で潰れる」とハイクに読まれたように。ハムマツもそれはよく理解している。
実際ナシキ少年の犯した罪は軽いものではない。違法カキノタネをはじめとした禁制品の取引、そして顧客と口論になった末の殺人。幸いにして彼の罪には正当防衛が認められ、短期での出所を果たした。相手はシャブ・ドラッグと違法サイバネ手術によって精神を病んでいたという。
「結構なワザマエだな」モリブはチャイルド・イーグルのオリガミを手に取った。実に精巧に作られており、ハイスクールのカジュアルなオリガミ部程度であれば実際キャプテンを勤められるほどのものだ。ウマイ!「ナシキ=クンが作ったのか?」「そうだろう」ハムマツは頷いた。
モリブがチャイルド・イーグルをハムマツのブンチン・ペーパーウェイトの上に乗せる。イーグルの爪がブンチンの角をしっかりと掴んだ。本当にナシキ=クンが作ったものなのだろうか? モリブは疑った。ナシキ少年は決して学のあるほうではなかったはずなのだが。「ベンキョしたのか」
少年からのオリガミ・メールは、今夜ハムマツをマツリに誘う内容だった。場所はネオカブキチョ、江戸時代のリキシ・スモトリを祭るジンジャ・カテドラル。歴史ある地元のマツリへの招待とあって、ハムマツは喜んだ。「パトロールが終わったらちょっと行ってくるつもりだ」
「今日は嫁さん待ってるだろ」モリブは尋ねた。「ちょっと会ったら帰るさ。今日はモリブも来るんだろ? ホニカが張り切ってたぞ。モリブが久しぶりに来るって言うんで」「またスシ・ピザか」二人は笑った。久々の親友三人での食事の予定なのだ。「ナシキ=クンには悪いが、晩飯はホニカのピザだ」
ハムマツの妻、ホニカ。ワガシ・ベーカリーの娘で、ハムマツやモリブともハイスクール以来の友人だ。ハムマツに相応しい、カワイイ女性だ。家系の割に料理のワザマエはスゴイヒドイが、最近は成長の兆しが見えていた。ナチョスシ・ピザはそんな彼女の数少ない得意料理だ。
「いい旦那だ」モリブの言葉にハムマツははにかんだ。「ホニカ、こないだから頑張って料理練習してるんだ。多分モリブが来るからだな」「相変わらず失敗続きか」「まあな。こないだのワサビ・ピザは酷かったぞ」意地の悪い笑みを浮かべながら、ハムマツはパトロールの準備を始める。
「ホニカは何でもかんでもピザにしたがるな」「実際モリブのせいなんだぞ」ハムマツはコートを着込みながら何気なく答えた。「ホニカが言ってた。ずっと昔にモリブがピザを褒めてくれたのが凄く嬉しくて、それ以来つい作っちゃうようになったってな」モリブは困ったように頬をさすった。
「一体いつの話だか」モリブはとぼけた。しかしはっきり思い出すことができる。それはハイスクールのとき、見栄えの悪いナチョスシ・ピザを食べたときの話だ。味は単調で塩もきつく褒められるピザではなかったが、モリブはホニカを傷つけたくないあまり褒めたのだった。
「さあな」ハムマツはモリブの様子に気づくこともなく、しっかりと防寒装備を整えることに集中していた。ネオサイタマの冬は厳しい。今夜も雪が降るかもしれない。暖かい屋内にいられるならともかく、外を警備するのだ。質が悪く薄手のマッポ制服だけでは凍え死んでしまう。
完全防備のハムマツは白黒のイチマツ・チェック・マフラーの奥で自信ありげに笑う。「それじゃあ、行ってくる」「ああ。また後で、ホニカの家でな」ハムマツを見送ってから、モリブは仕事に取り掛かる。今日の仕事は比較的分量が少なく、表にも出ないで済む。こんな日にありがたい話だ。
--
夕刻、ハムマツ家。ダンチと呼ばれるマッポ用集合住宅の一室。フスマの外のネオサイタマ市はどっぷりと日が暮れ、カチグミ・ディストリクトの彼方からサーチライトが天を刺している。既に予定の時間を過ぎていた。モリブは一人居間でテレビ放送を見ていたが、どうにも落ち着かない。
「フユ・ミュージックアワー! お楽しみいただけているでしょうか……」マグロ・ツェッペリン特設ステージから流されるオイランシンガーのバラードが愛を歌い、空虚に響く。モリブは何度も端末をチェックするが、ハムマツ・タマシからのIRC連絡は入っていない。
台所のホニカが焼きたてのナチョスシ・ピザを持ってきて、居間のチャブに広げた。「デキタヨー」うっすら焦げ目の付いたピザの秀逸な匂いが空腹をくすぐる。「タマシ=クン遅いね。モリブ=クンにIRC連絡来てないの?」モリブは再度端末を確かめたが、首を振った。
ホニカは表情を曇らせたが、「焼けちゃったし、先食べちゃおうか? タマシ=クンの分はまだ焼けるから」気を取り直してピザ切り包丁を台所から持ってくるホニカ。妻に連絡もいれず、ハムマツは一体どこで何をしているというのだ?
「ラッシャイ!」玄関の電子音声が来客を伝える。「タマシ=クン?」ホニカがぱっと顔を輝かせ、玄関に駆けていく。モリブは一息ついてピザを切り始めた。少し遅くなってしまったが、パーティの始まりだ。モリブが差し入れた上等なサケもある。ただただ嬉しい。
「ア、アイエエエ!」ホニカの悲鳴が響く!
モリブは慌ててピザ切り包丁を放り出し、マッポガンを引き抜いた。電磁ジュッテ機能を備えた上級マッポ向けのカスタム・マッポガン! 玄関に急行し、信じられない光景を目にする……ヤクザの一団! 「ヤクザナンデ!? ナンデ!?」クローンヤクザに手を捻り上げられたホニカが錯乱している!
マッポガンを構えるモリブにクローンヤクザの一同は身構えつつも、室内へとじりじりと侵入する。モリブは後退せざるをえない。「ドーモ、ハムマツ・ホニカ=サン。それと……テメッ何者だコラー!」クローンヤクザの中で異彩を放つ、グレーターヤクザが威勢を挙げる。
「ン?」玄関の外からうら若い少年の声が響き、クローンヤクザの群れ越しにモリブを見つけた。おお、何たることだ! モリブは少年の顔に見覚えがあった……「ナシキ=クン!?」「アー、ドーモ。ハムマツ=サンの部下の……エート、モリブ=サンでしたっけ」へらへらと笑う! 不敵!
「この男どうすんコラー!」グレーターヤクザが声を荒げてナシキに尋ねる。「アッハイ。やっちゃっていいですヨー」無慈悲に答えるナシキ少年。一体なぜナシキ少年がヤクザに指示を出しているのか!? 「ナシキ=クン、ナンデ?」モリブは呆然と彼の顔を見つめる。マッポガンが震える。
「ナンデって、ナンデ? ハムマツ=サンは腐ってるからヨー?」ナシキ少年は無邪気な笑みを浮かべる! クローンヤクザの一団がモリブにチャカを向ける。絶体絶命! 「モリブ=サンはただのマッポだから標的じゃないんだけど、銃を向けられちゃネー」少年の目がきらりと光る!
モリブは動揺しながらも戦力分析を怠らない。家の中に進入してきたのはクローンヤクザ5人とグレーターヤクザ1人。ナシキ少年は玄関先からこちらを見ている。外に控えはいないようだ。クローンヤクザのうち1人がホニカ=サンを拘束しており、残りはモリブにチャカを向けている。勝ち目は薄い。
もしモリブが先手を打てば、まずホニカを拘束するクローンヤクザを射殺。チャカ射撃を回避できたとして、グレーターヤクザが直々に攻撃行動に出るまでに数人クローンヤクザを射殺できれば御の字だろう。グレーターヤクザの武器はわからないが、マッポガンで太刀打ちできるものではあるまい。
「余分な殺生はしたくないヨネ?」少年はグレーターヤクザに言った。ヤクザはそれを鼻で笑ったが、少年は続ける。「モリブ=サンがそのマッポガンを置いてくれれば、穏便にことを済ませるんだけどサー」「こと、とは」モリブは尋ねた。「ハムマツ=サンの私物をちょっとネー」
ナシキ少年は困ったように笑った。「ハムマツ=サンをちょっとやめてもらいたかった人はたくさんいたんだヨー。アー、モリブ=サンは眼中にないけどネー。ついでにハムマツ=サンの持っていたものは何もかも処分しなきゃならないんだヨー」なんということ! これは狂気か? 違う、冷静な損得!
恐らく、ナシキ少年は何らかの取引をしたのだ。元々ヤクザクラン配下のチンピラだったのかもしれない……いずれにせよ、ハムマツとの面識を買われての狼藉。これを指揮したのはヤクザではあるまい。なんたる腐敗か、なんたるマッポーの世か。ハムマツを嫌がった警察内の行いに違いあるまい!
「アッ。本人は片付けたから安心だヨー。『死んだら終わり』って言うしネー」ナシキ少年は白と黒からなる塊を放り投げた。弧を描いて廊下に音もなく落ち、モリブは眉をひそめる。布の塊?「それは、なんだ?」「奥さんならわかるんじゃないカナー?」ナシキ少年はクローンヤクザに目配せする。
ヤクザがホニカの顔をそちらに向けるや否や、ホニカは絶叫した。「マ、マフラーナンデ……アイエエエ、タマシ=クンの、タマシ=クンのマフラー!」イチマツ・チェック! モリブも遅れて思い当たり「ハムマツ=サンに何をした!」「殺したヨー」悪びれる様子のかけらもない、何たる悪魔的態度か!
「アア、タマシ=クン……アイエエ」ホニカは狂乱状態を超え、心ここにあらずといった風に虚空を見つめて口をぱくつかせている。「いい奥さんだネー。モリブ=サンも大人しくしてくれると助かるんだけどサー。ここで暴れるとホニカ=サンも死んじゃうかもしれないしネー。流れ弾トカ」
あくまでも他人事といった風体でナシキ少年は肩をすくめた。モリブは怒りで打ち震えながらも、それを心の中で留めた。流れ弾だと? 彼はこう言っているのだ。「ホニカの命が惜しくば武装解除しろ」マッポとしての正義感と、ホニカへの愛情との間でモリブは揺れた。
ハムマツ・タマシは本当に死んだのか? それはまだわからない。マフラーだけでは証拠にはならない。モリブはわずかな希望に縋った。まず取り除かなければならないのは、ハムマツ・ホニカの身の安全だ。モリブは迷い、迷い、そしてゆっくりとマッポガンを床に置いた。「アリガトー」
「バカダネ」「スッゾコラー!」「グワーッ!」なんたる卑劣か! モリブがマッポガンを手放したその瞬間、グレーターヤクザがケリ・キックを放ったのだ! モリブは軽々と吹き飛ばされる!「こんな場面見て生きて帰れるわけないじゃんヨー」ナシキ少年がせせら笑う!
壁に叩きつけられたモリブは咳き込んで動けない!「囲んで棒で叩け!」グレーターヤクザが命ずると、クローンヤクザが一糸乱れぬ動きで棍棒を手に取る! コワイ! 棍棒が腕を殴る! 棍棒が腹を殴る! 棍棒が足を殴る! 見る見るうちにモリブは弱り、いまや虫の息!
「アッ、ホニカ=サンは生きて帰れるヨー。ただし……長生きできるかはわからないネー。胸も豊満じゃないしサー」ナシキ少年は満足げにモリブを見下ろす。「もう聞こえてないかナー」ブッダの慈悲か、モリブの意識は既に朦朧としていて、ナシキ少年の非道な台詞は聞こえていなかった。
「アイエエ、タマシ=クン……ヤクザ……モリブ=クン……マフラー……ピザ……アルヨ、ピザ……」ホニカがぶつぶつと呟く。もう何も聞こえないはずのモリブが、それを聞き取り、応えた。「ホニカ=サン」これは一体いかなる奇跡か? 違う! しかし棍棒がモリブの眼前に迫る!
--
「間違いだらけだ」モリブは暗黒の空間で正座していた。「何もかも間違いだらけだ」永遠を暗示する暗黒空間。現実ではコンマ秒未満のことだが、オメガポイントめいて時間と空間と思考が引き伸ばされているのだ。これはブッダが与えた反省の場か?
「ナンデ? 不幸せになるのはナンデ? 悲劇が訪れたのはナンデ? 俺は正直に生きた。俺はブッダのために生きた。俺はユウジョウのために生きた。俺はタマシ=サンのために生きた。俺はホニカ=サンのために生きた。俺は善だった。俺は悪くない、俺は悪くなかった……」「それはホント?」
「ホントは何か間違っていたのではないのか? だからこんな結末なんじゃないか?」「だとしたら、どこで選択を誤ったというのか? これはインガオホーなのか? 何が罪深かったというのか? それともブッダはサディストなのか? すべてが罪だったとでも?」
「もしも、もしも、もしも、だとしたら」「アー、ウー」「ならば……しかし……お前は何をして、何をしなかった?」「しかしもう取り戻せない。過去は変えられないのだから」「そう。もう見守ることしかできない。じっと罪を見る。じっと罪を見る」これは一体、何者のコトダマなのだ?
「考えど、考えど、楽になどなれぬ」じっと罪を見つめる、すべてが罪。ショッギョ・ムッジョ。一対のルビーめいた瞳が闇に浮かぶ……!
--
棍棒が唸る!「死ねオラー!」ヤクザとナシキ少年は、モリブの頭がトマトめいて砕け散ることを期待していた。だが、しかし!「ツミブカイ……」断罪の声! 見よ、棍棒を掴み取ったモリブの手を! 棍棒ごと捻りあげ、クローンヤクザの手首を破壊! タツジン!
「ナンオラー!」他のクローンヤクザが追撃を加えんとするが、モリブは丁寧にすべて受け止めて手首を捻り破壊、破壊、破壊! これは無力化を旨とする伝統的マッポ・ジュー・ジツ! グレーターヤクザが電撃的に反応し横流しデッカーガンをモリブに向けるが、驚愕! モリブの姿がない!
否! グレーターヤクザは混乱した! 眼前にモリブの拳が現れたのだ! ニンジャ動体視力を持っていたら気づいたことだろう、モリブは雷光の速度で起き上がり、その反動でグレーターヤクザに向けて跳躍! 浮くや否や姿が消失! グレーターヤクザのワン・インチ距離で再び出現したのだ!
「アバーッ!」グレーターヤクザの首が血煙と化す!「ナ、ナンオラー……!」手首を失った三人のクローンヤクザが逆の手でチャカを構えるが、もう遅い! 跳躍と消失を繰り返すモリブに対応できず、首が切断! 切断! 切断!「「「アバーッ!」」」ハムマツ家は血に染め上げられる! サツバツ!
残るはホニカを捕らえたままのクローンヤクザと、ナシキ少年。モリブはハムマツのイチマツ・マフラーを拾い上げると、それをゆっくりと巻いた。口元の布地が超自然の力で硬質化し、風もないのに両端が耳めいて後ろになびいて固定化される。ゴウランガ! それはまさしくメンポ!
「ニンジャ!? ニンジャナンデ!?」ナシキ少年が失禁! クローンヤクザは気丈に人質たるホニカをアピールしたが、無意味だ! それはなぜか!? おお、見よ! アピールしたつもりのクローンヤクザの顔は、既にタタミに転がっているではないか!「アバーッ!」
モリブは己に訪れた急激な変化と自動的な殺人行動に戸惑いを覚えながらも、その衝動に身を任せていた。腰を抜かしたナシキ少年を見下ろし、冷たく言い放った。「ドーモ、ナシキ=クン」「アイエエエエ……」「ギルティーラビットです……!」ナシキ少年は再失禁!
ネオサイタマのマッポ、モリブは……否! ニンジャ、ギルティーラビットは、ナシキの頭を掴んで持ち上げる。与えられたニンジャ握力がたやすく少年の身体を支え、首と頭蓋骨をきしませる。「アイッ、イエッ」少年の顔が歪むのを直視したまま、ギルティーラビットは全力で握り締めた。
「また一つ……」罪が増えた。ニンジャソウルから湧き立つ罪悪感と無力感がギルティーラビットの顔を曇らせた。「ニンジャ、マフラー、ニンジャ、ヤクザ、タマシ=クン……モリブ=クン」狂人となったホニカが、ギルティーラビットの血濡れのメンポを、ウサギめいて純粋な瞳で見つめていた。
--
ギルティーラビットはホニカを寝室で眠らせ、ジツで姿を隠した。彼はニンジャ・リアリティショックのことは知らなかったが、うわ言を聞けば対処法は明らかだった。好都合なことに、彼に与えられたジツ、スミゴロモ・ジツはトラディショナル・ドトン・ジツめいた隠し身のジツだった。
翌日、数人のヤクザがハムマツ家に様子を探りに来た。恐らく、連中が帰ってこなかった理由を探りに来たのだろう。ギルティーラビットは彼らを皆殺しにしてから、再びホニカのそばに戻り、やはりずっと見つめていた。元のホニカに戻って欲しいと願いながら、ジツで姿を隠しながら。
ギルティーラビットがそうやってハムマツ・ホニカに仕えていたのは、彼にとっては大変長い時間に思えたが、ほんの三日のことだった。三日目の夜、ハムマツ家にニンジャが訪れたのだ。彼らはソウカイヤのニンジャだった。マッポであったギルティーラビットはクロスカタナの意匠を知っていた。
末端マッポだったギルティーラビットにとって、ソウカイヤ・ニンジャの情報は知りえなかった。しかし、己がニンジャとなった今となっては、すべてに納得がいく。このネオサイタマを支配しているものが何なのか。ソウカイヤの頭領……あのラオモト・カンがニンジャであることも。
戦いは起こらなかった。ギルティーラビットは構えずとも己のカラテが劣ることを悟ったのだ。それだけではない、ギルティーラビットはホニカを危ぶんだのだ。もし彼女を守りながら刺し違えることができたとしても、ホニカは一人残され、このネオサイタマの寒空に放り出されることになる。
ギルティーラビットは、一か八かホニカの保護を交渉した。実際命知らずなことであったが、ソウカイヤのニンジャはそれを快諾した。正確には、ニンジャの元締めたるラオモト・カンの元にお伺いを立てるというものではあったが。彼らの優先事項は最初からニュービー・ニンジャの回収であったらしい。
「ムハハハハ! 女のためにか! ムハハハッ! まさにウサギらしいプレイボーイだな! ムハハハ!」ラオモト・カンは事情を聞くなり嘲笑した。ダメなのか? ギルティーラビットはドゲザしたまま後悔しかけた。「しかし、オヌシのジツは実際面白い。ワシに宿すにはブザマに過ぎるが」
「いいだろう、病院の手配くらいはしてやろう。ただし金はワンコインとて出さぬ! ワシに下り、その働きによって払うのだ! ムハハ!」寛大な言葉は偶然の気まぐれだったのだろうが、ラオモトはホニカの保護を約束した。ギルティーラビットは激しい感謝の意を伝え、ソウカイヤにすべてを捧げた。
--
「ユウジョウも愛もたぶん少しあれば十分だなんて言わない~」退廃的なレトロ・エレクトリック・ポップスがスピーカーから流れている。
バー「サンズイな」の店内。まだ手付かずのイクラ・サケがボンボリの光を神秘的に乱反射していたが、安物のイミテーション・イクラキャビアが溶け出し、輪郭をにじませていた。モリブはそれをイッキする。口の中でイクラキャビアが弾け、ソーダ水の泡のような香りを残して消えた。
フスマのアラベスク模様がミミズめいてのたうつ感覚は、酔いではない。劣悪で不安定な骨董品フィラメント・ボンボリによる、単なる光学的現象に過ぎない。この程度のアルコールで酔うことはできない。ニンジャ代謝力が無情にも分解するのだ。ニンジャは常に戦うために在る。
店主はUNIXをタイピングしていたが、顔をあげてモリブに言った。「モリブ=サン。悪いんですが、ちょっと店じまいしたほうが良さそうなので、今夜はここまでということで」モリブの懐のIRC端末もノーティスを挙げている。「なんかマルノウチで爆発とかあったらしいんで」
「またよろしくお願いします」店主はにこやかに送り出してくれたが、モリブが店を出るとすぐに鍵を閉めた。ストリートには同様に店から追い出された人々がうろついており、酔いのままに愚痴を吐くもの、不安げに空を見るもの、様々であった。マルノウチの火が夜空を赤黒く染めていた。
カブーム……再び爆発音。近くではない。モリブは人の視線から注意深く外れ、IRC端末の指令を受諾する。「いつもお世話になっております。ネオサイタマ各所ソウカイヤ施設で爆発あり。ネオカブキチョの臨時警戒を行え。ネザークイーン重点。よろしくお願いします」
モリブの瞳が鋭さを増す。マッポを逸脱しソウカイヤのニンジャとなった彼だが、その仕事は何一つ変わらなかった。お笑い種だと彼は思う。正義のためにと誰かを助け続けていたマッポと、悪を選び誰かを殺し続けるニンジャ。対極とも思えるその二者が、実は同じだっただなんて。
モリブはイチマツ・マフラーの具合を確かめ、暗闇に隠れて「サンズイな」の屋根に登った。白と黒のイチマツ模様がゼンマイめいて巻きつき、二つの耳と獣面のメンポを形作る。かつてハムマツ・タマシなる男が付けていたそのマフラーは、彼のニンジャ装束の一部と化していた。
ハムマツ・タマシの消息は不明のままだ。しかし彼のニンジャ嗅覚は、マフラーメンポから血と唾液の匂いを嗅ぎ取っていた。ハムマツ・タマシは囲んで棒で叩かれ、血と涎を吐き、絶望の末に死んだのだろう。モリブは直感し、ニンジャソウルの残していった罪悪感がそれを肯定した。
ハムマツ・ホニカはニンジャリアリティ・ショックから立ち直ることができず、いまだ狂人として病院にいる。もう彼女は戻れないのだろう。モリブはそう直感する。その悲観はニンジャソウルの残留思念によるものなのか、モリブ生来のものなのか、今となってはわからなくなってしまった。
夜空に燃えるマルノウチ・スゴイタカイビルの威容。巨大なトーチめいたそれにも、また変えられぬ過去にも、今は思いを馳せる時ではない。モリブはカラテを練り、ギルティーラビットとしてネオカブキチョの空を行く。ソウカイヤにあだなす何者かの調査。あるいはニンジャ・ネザークイーンとの対決。
あるいはネオサイタマの死神、ニンジャスレイヤーとの戦いか。いずれにせよ、生きて帰れる保証はない。もし自分が死ねば、ホニカ=サンはどうなるだろう。けれど、そうまでして生かすこともまた正しいのだろうか? ギルティーラビットのカラテは自問自答の螺旋の中で練られていく。
天頂には赤黒く染まる満月。古事記の昔、人は月にウサギの姿を見たという。ウサギは太陽から逃げては毎晩このマッポーの世へ現れ、途方もない回数のカラテ・ツキでモチをついては、とあるプリンセスに献上するのだという。それはウサギに与えられた罰なのか、それともウサギの無償の愛なのか。
ああ、あんなにトーチが高くては──さぞ煙たかろうに。
「ブラックラビット・クロス・トゥ・ホワイトラビット」了