「糸と糸相逢おうことなし天衣無縫」
一 ほつれてふれあう
僕はビルの日陰に入って、冷やっこい空気を胸いっぱいに取り込んだ。目の前にした廃ビルの先よりずっと向こう、あまりにも遠くて青い空を見ながらだ。スポーツドリンクの缶みたいな鮮やかな夏の空が向こうにはあって、それを支えるように廃墟は建っていた。
庭が茂りに茂ったおかげなのか、風はここまで入ってくる様子はなく、湿った空気が心地良い。道路を走る風はことごとく熱風で、僕らに汗ばかりかかせるものだ。子供は元気がいいなんて言うけれど、元気と無茶の違いを理解している人はそれほど多くないと思っている。夏だからって、誰しもが表で遊ぶことに適性を持つわけでは、決してない。
見上げたビルは、決して高層ビルなんては言えない。窓から察するに、四階建てらしい。ちょっと裏庭の付いた雑居ビルで、僕が知る限り、ずっと廃ビルだった。物心付いた頃から風化していて、いつか輝いていた時期があったなんて信じられないくらいに、廃墟だった。勿論封鎖はされている。けれど、建物の裏側まで回れば、柵に開いた小さな亀裂の一つや二つがあるものだし、なかったとして乗り越えるのもそんなに苦ではない。僕は体よく金網に穴を見つけて、少しだけそれを広げて通り抜け、元々洒落た裏庭だったんだろう密林を抜けて、やっと廃ビルの勝手口に辿り着いた。
秘密基地を作ろうなんて初めて言った人はどこの誰なんだろう。きっと昔の戦隊ものか何かを見て、星色にさんざめくモニターや、青紫や漆黒に染まった壁、頭より高い堅そうな背もたれに憧れた誰かが言い出したんだろう。僕らもまたそんなものに憧れて、秘密基地を作ろうなんて言い出したからには、あんまりとやかくも言えそうにないけれど。
場所が肝心なのだと言ったのは誰だったか。その誰かのせいで、僕らは散り散りになって良い場所を探すことになってしまった。候補地は随分とたくさんあるらしくて、それで僕はここをたった一人で探検する羽目になってしまった。不法侵入が悪いことだって言うのは知っているけど、ワクワクする気持ちがないわけじゃない。心の中でゴメンナサイを一度言ってから、一度は入ってみたかった廃ビルを目の前にして、僕はポケットに差した水鉄砲を意味なく点検した。少し、怖いかもしれない。
意外なことに、勝手口の鍵は掛かっていなかった。灰色の壁面に馴染ませるように塗られた鉄の扉は、見た目の剣呑さ以上に人を拒む気はないらしい。無用心だとは思うけれど、建物全体を金網で覆ってしまえば問題ないとでも思ったんだろうか。事実不法侵入されていることを知ったら、その誰かはどんな顔をするだろうか。僕がそんなことを考えながら遠慮がちに鉄の扉を開けると、廊下は奥から差し込む光でぼんやりと明るかった。
明るいほうを目指し、いくつかの扉を無視して僕はリノリウムの廊下を行った。ビルをほとんど横断した形になって、僕はすぐに広い部屋に辿り着いた。埃でざらざらした板張りの広い床に、三方を囲んだ何も入っていない据付の棚。僕の正面には窓ガラスとガラス扉が一面に広がっていて、すっかり曇ってしまったその窓は、向こう側に国道を映しながら、太陽の光を受けて真っ白に光っていた。
元々何かの店だったのだろうか、部屋はあまりにも広くて静かだった。一人体育館にいるときみたいな、自分の息遣いさえよく聞こえないような、開放感と圧迫感が重なったような気分。人が誰か一人でもいればもう少し素敵なところなんだろうけれど、今ここにいるのは僕だけで、誰かが訪れることもない。でも、いつかこの場所にも人が集っていたことがあったんだろう。僕は誰かが覗いているような気がして少し身震いした。そんな僕を知るそぶりもなく、窓の向こうの国道を赤い車が通った。
窓の隅には階段があり、大きな吹き抜けを介して二階と繋がっていた。僕はゆっくりとその一段一段を踏みしめ、上がっていった。もっと古い感触があるかと思ったのだが、意外なほどに階段はしっかりと僕の体重を支えてくれた。
パサ、とどこかで音がしたような気がした。僕は振り返り、恐る恐る一階を見下ろした。荒れた板張りの床、空っぽの棚、車の通らない国道を映す窓。窓の外は焼け付くように明るくて、窓の内側はあまりにも静まり返っていた。気のせいだろうか、それとも。僕はそっと頭を振って、二階へと上がった。
二階は一階の店舗の続きだったようで、同じように板張りの、三方を棚に囲まれた部屋だった。一階と違うのは、中央に丸いテーブルが一つ、椅子が幾つか打ち捨てられていることだけだった。
振り返ると、さっき通った吹き抜けを跨いで大きな窓があり、二階に上がっただけでも随分先まで街を見渡すことが出来た。面した国道を通る車はなく、それより先、ずっと向こうまで赤茶けた住宅街が、誰の気配もなく続いていた。
僕はテーブルと椅子に近づいた。木製のテーブルで、天板は円。埃を被っているが、屋内だったからだろう、腐る様子もなかった。だが、僕が立てようと試みるも、どうやら足が欠けているらしく、上手く立ちそうもない。これはあとで修理すれば使えるかな、そうでなくても何かに使えるかな、なんて思いながら、テーブルを諦めた。椅子のほうを調べてみると、これはなかなか上々だった。上に乗ったりすれば壊れるかもしれないけれど、そうそう荒っぽいこともしないだろう。そう信じて、僕は椅子をテーブルの脇に寄せておいた。
二階の奥、ちょうど僕が入った勝手口の上辺りはエレベータホールになっていた。エレベータは勿論動いていない。型の古そうなエレベータで、階数の描かれたキャップ付きのランプで籠の居場所を示す仕掛けのものだった。扉も長いこと開いていないのか表面の塗装が朽ち、破壊されるときを待っているような、そんな寂しさと感慨に包まれているように僕は思った。気づかなかったけれど、恐らく、一階にもエレベータホールがあったんだろう。帰りがけに確かめてみようと僕は思った。エレベータの四つのランプが光ることはないのだろうけれど。
僕はその隣に階段を見つけて、三階に上がることにした。タイル張りで、壁の所々に配管が剥き出しになっている階段で、元々あまり使われる予定のなかったことが垣間見えた。きっと気のせいだろうけれど、眼を逸らしたその一瞬だけ、二階を示すランプが光ったように見えた。
三階に上がった僕を迎えたのは、正面から無表情に照らす窓と、扉の脇に立てかけられた一枚の看板だった。看板には「カフェ・関」とだけ書かれていた。
カフェ・関の入口は開け放たれたまま放置されていて、縞模様の強い黒檀の大きなカウンターが僕を迎えた。暗い色合いの木材で統一された店内には、黒檀でそろえられたテーブルがいくつか並び、その上に質素に飾られた照明付きの天井扇が釣り下がっていた。
カウンターの内側には錆び付いたコンロや流しが放置され、蛇口は夏の暑さに結露しているようだった。元々皿が並んでいたであろう棚も今は空っぽで、埃が地層となって積もっていた。
僕はカウンターのスイングドアを通り、内側へ入ってみた。カウンターの向かいには窓があって、逆光になったテーブルが黒い影をこちらに向けていた。
試しに蛇口を捻ってみると、意外にも水が出た。僕は驚いたけれど、水に触れて、その冷たさに安心して小さな滝に口をつけた。横になった視界の中で、僕は確かにざわめきを聞いた。
注文を待つ誰とも知れない店主の息遣い、給仕さんが歩く靴音、氷が揺れてならすカランという音、意味の取れない談笑と、それに連なる幾つもの物語。
店主は言った。「君がこの店のために無理をすることはない」
声が答える。「それでも、この店を潰すなんてことできはしない」
店主は言った。「私の夢は終わったんだよ。良い夢だった。夢はいつか覚めるもの、違うかい」
声が答える。「それなら私が継いだって」
店主は言った。「君には君の夢を見て欲しいんだ。それが今の私の夢なんだよ」
僕ははっとなって顔を上げた。店内に活気が戻ってくることはなかった。水道からは悠々と水が流れ続け、流しにどたどたと荒っぽい音を立てて下水へ消えていく。僕は蛇口を閉め、その小気味いい音に別れを告げた。
四階は住居だったらしい。これまでの開放的な内装とは異なり、暗い緑色の床が律儀に並んだ鉄の扉の前まで続いていた。僕は試しに一番近い扉を開けてみた。ここもまた、どうしてか鍵は掛けられていなかった。無用心にも程があるんじゃないだろうか。
当然だけれど、家だった。家具や日用品はなく、生活感はまるで漂っていないけれど、ここは未だに家だった。部屋は三つ。和室には何かを置いた跡があって、焦げた穴もいくつかあった。開け放たれた押入れの中は勿論空っぽだったけれど、古くなってへなへなになったダンボールが敷いてあった。
洋室には、忘れ物だろうか、コンセントにはテーブルタップが刺さりっぱなしになっていた。きっとここら辺に座って、テレビを見ていたんだろうと想像して、僕が試しに座り込んでみると、不思議と居心地が良かった。
最後の部屋には、本当に何もなかった。ただ、質素な壁紙のところどころが捲れてしまっていて、大きく破けたところもあった。破けたところからは灰色の下地が剥き出しになっていて、夏の日の暑さに乾燥していた。もしかしたら、これを隠すためにポスターか何かを貼ったのかもしれない。周りを囲むようにテープの跡がいくつかあった。
僕はふと、好奇心に駆られて、その破れた壁紙から距離をとって、ポケットから水鉄砲を取り出した。水の充填は十分だ。ゲームの弾丸じゃないし、なくなってもゲームオーバーにはなったりしないだろう。僕はコンクリートの地肌を的にして、少しの間かっこつけて射撃の練習をしてみたりした。アドベンチャーゲームみたいに何かが進展するわけでもなかったけれど。
部屋を一つ一つ覗いて見たけれど、他の部屋も同じようなものだった。壁紙が破れているのは最初の部屋だけだったけれど、余程扱いが悪かったんだろうか。僕は最後の部屋を出て、階段へ戻った。
まだ階段は上に続いているけど、この建物は四階建てのはずだ。ということは、この階段の先は屋上になるんだろう。あんまり期待はできないけど、僕は一応登ってみた。
案の定、他のどの扉より無愛想な扉は、開かなかった。
二 ほつれてちぎれる
俺は大きく溜息をついた。暑い。目の前に立つ廃墟を睨みつけながら、俺は鬱蒼と茂った藪の中を掻き分けて進んだ。夏物とはいえ、スーツ姿ではあまりに暑くてたまらない。憂鬱になるほど明るい太陽から逃れて、俺はやっとビルの日陰に入ったのだ。
国道エヌ号線は山側から吹き降ろす熱風でフライパン並の暑さを誇っていて、クーラーなしには車など運転できやしなかったが、そんな国道に面するこの廃ビルもまた暑さにぐらぐらと揺れているように思えた。
見上げたビルの名前は「関ビル」と言う。昭和のある年に建てられた建造物で、元々二階までを本屋、三階を喫茶店、四階を身内中心の住居としたビルだった。国道に面しているというのは利点だったが、車で本を買いあさる人などそうそういるものではないし、喫茶店も同様だ。回りは住宅街だが、駅からは遠く、都内にもかかわらずバスも一時間に一本と言ったところだ。流行るはずがないのは誰だってわかるはずだ、きっと道楽で始めて、道楽で終わったのだろう。閉店・閉鎖したのはずっと前になる。その割に、我が社に権利が持ち込まれたのはたった数ヶ月前で、元の持ち主も他人事のような風だったと言う。
立地は必ずしも悪いとは思わない。国道沿いならば、国道沿いに合った店舗展開をすればいいだけなのは明らかだ。恐らく建て直しも視野に入れているだろう。
俺はもう一度このビルを見上げた。余裕があるからこういう建物は生まれ、放置される。夢を見るのは勝手だが、随分ともったいないものだと俺は思った。四階建ての廃ビルは文句一つ言わないが、もしビルが文句を言えるなら、ビルは文句を言うだろうか。
つまらないことを考えてしまったが、俺は鞄の中から鍵束を取り出した。このビル全体が今やこれ一つで踏破できる。俺は中でも一番錆び付いた鍵を選んで、灰色に塗られた勝手口のシリンダー錠に差し込んだ。鍵は意外とスムーズに開いた。
中の空気は予想以上に暑かった。あれだけかんかんと照らされれば熱もこもる。それだけならともかく、埃とゴムの腐ったような匂いが俺の鼻を突くのが気になって、俺は思わずハンカチで額を拭った。
俺は鞄から図面を出しながら、ひとまず一階の表側まで出ることにした。図面を見るまでもなく、明るいほうへまっすぐ進むだけで良かった。俺は古くなったリノリウムの床を踏みながら、ビルを横断し、かつて本屋だったところに辿り着いた。かつて人を迎えていた窓は埃と傷で白く曇っていて、そのせいでやたらに明るかった。
部屋の構造は無難なものだった。入口脇に二階への階段が付いて、一階と二階で異なった顔を見せるには向いている。天井は吹き抜けのおかげで高く、照明は本屋らしくシンプルな蛍光灯で数も多い。長年放置されたせいで改修は必要だろうが、それでも店らしい仕様であるように思う。床板は何だかスカスカな感触がするが、古くなっているからだろうか。どちらにせよ、改修して残ることはあるまい。
表の国道に止めた俺の車の後ろを、趣味の悪い真赤なスポーツカーが通り過ぎていった。俺は一通り店舗内を見直してから、二階に上がることにした。
パサ、とどこかで音がした。階段を登り始めた俺は振り返り、ふと階下を見てハンカチを見つけた。先ほど汗を拭うのに使ったハンカチだ、落としてしまったに違いない。俺はいそいそと戻ってそれを拾い、強引にポケットへしまいこんだ。
俺はそっと肩をすくめて二階へと上がった。
二階は一階の店舗の続きだ。一回と同様に板張りで棚に囲まれた部屋で、元々学術書や辞書などの購買層が限られるものを置いていたものと思う。ただ、今となっては一階よりもさらに荒れ果てていた。中でも、中央に横倒しされた丸いテーブルと、そこに寄せ集められた三つの椅子が一際眼を引いた。
吹き抜けを跨いだ国道側は大きな窓になっている。一階の天井が高めに作られているのか、二階に上がっただけだが随分と遠くまで見通すことが出来た。車一つ通らない国道の向こう側を、住宅街に相応しい、さほど高くない建物が延々と続いている。
俺は捨て置かれたテーブルに歩み寄った。木製のテーブル、天板は円形。腐ってはいないが、ホームセンターで簡単に手に入る程度の量産品だった。これで公認の立ち読みもとい座り読みスペースでも作ってあったのかもしれない。足が欠けているのはすぐに気が付いた。きっとこのせいで捨て置かれてしまったのだろう。立たないテーブルでは使い物にならない。
椅子の方も古くなってしまっていて、修理するより新しく買いなおしたほうが良さそうだった。俺はテーブルと椅子への興味を失い、二階の奥へと進んだ。
ちょうど俺が入った勝手口の、真上辺りだろう。エレベータがあったらしく、こじんまりとホール状になっていた。電力を絶たれたエレベータは当然動いていないが、型の古いエレベータで、階数の描かれたキャップが光って居場所を示すタイプだった。電気を入れたとしても、恐ろしくて使えないな、と思わず考えてしまった。
俺はあっさりとエレベータを無視して、隣の階段を使った。階段に足を掛けた瞬間、ホールの小さな窓から、太陽の光がちょうど目に差し込んだ。俺は思わず目を細めながら階段を踏み外しかけた。
三階は喫茶店だったと聞いている。俺は「カフェ・関」と書かれた看板の掛かった壁を見て、歩調を緩めた。品の良い木製の扉を押しのけ、俺は喫茶店跡に入った。
上品さや格調の高さを目指して作られたのだろう、カウンターからテーブル、椅子に至るまで全て暗い色の木材で統一されている。中でも一際目を引くのは黒檀の大きなカウンターだった。食器類や調理道具は残っていないが、端に革張りのメニューが積んで置かれていた。
俺はメニューを一冊取り、パラパラ眺めた。コーヒーを中心に、いくらかケーキを出していたらしい。軽食はオムレツ等の卵料理が多い。ごく普通の喫茶店で、ごく普通のコーヒーを出し、ごく普通の軽食を出していたらしい。
どこの国を意識していたのか、最近見ない照明付きの天井扇。光を入れることを重視した窓の位置。カウンターから見てテーブルは逆光になっていて、客席は明るいはずなのに暗く見えてしまっている。照明を付ければ違うのだろうが、日光の当たった窓際の席は暑そうだった。
俺はメニューを手にしたままカウンターのスイングドアを通り、内側へ入ってみた。当然ながら何も残っていない。最後に綺麗にしたと思しき流しも埃にまみれ、棚の隅には蜘蛛の巣が張っていた。ここは大改装することになるだろうな、と俺は思った。ここに喫茶店が入れることは、恐らくもうないだろうと思う。
メニューを元のところに戻そうとしたところ、ぱらりと一枚の紙が床に落ちた。メニューの一部かと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「たといいかに時が流れようと、この世界、この宇宙、この惑星、この国家、この地域、この都市、この座標に存在したという事実は、永遠に変わることがない。たといそれが無意味であっても。人々が私を忘れ失っても、君が確かにここで働き、君が確かにここで学び、君が確かに私の元を巣立ったという事実は永遠に変わらない。それを幸せに思ってくれ。私はもう戻ってこないが、無意味なことを無意味と断罪しないでくれ。私達は完全にはなれないのだよ。付かず離れず、目的地もわからず、幻影の地を求めて流離うことさえなく、約束の地の後方を延々と回り続けている。忘れないでくれ。人を評価するのは常に人であること。観測が世界を生み出すのだ。視野を熱しながら広く保ち、それでいて心を冷静に保て。私達の心がもしも紛い物に過ぎなくとも、だからどうしたというのだ。信じるものは世界だ。何を信じ何を信じないか、それを接続しろ。そのとききっと君の糸と誰かの糸が相逢おうと信じて」
俺は、そっとその紙をメニューに挟んで元に戻した。
四階は住居だったと聞いている。これまでの開放的な内装とは完全に異なり、暗い緑を基調とした排他的な雰囲気が漂っていた。それもそのはず、ほとんど親戚だけで住んでいたのだと言う。今はもうここに住む者は誰もいないが、果たして彼らはどこへ行ったのだろうか。元の持ち主は、確かそれなりの年の女だった。恐らく、彼女が親類最後の人間だったのだろう。
家に興味はないが、一応確認はしなければなるまい。どれか一つでも調べれば後は誤魔化せるだろうと思い、俺は試しに一番近い扉を開けてみた。
三つの部屋からなる家で、和室が一つに洋室が二つ。恐らく夫婦向けに設計された部屋なのだろう。当然のことだが、家財道具などは残っていなかった。残っていたとしても使い物にはならないだろうし、期待もしていなかったが、ないならないで手間が省ける。老朽化の具合は酷く、和室の畳は古くなってぼろぼろだったし、洋室は埃でむせ返りそうなくらいだった。
最後の洋室に入った俺は思わず息を呑んだ。部屋には何もなかったが、色あせた壁紙のところどころがめくれ、壁の真ん中で大きく破れているところがあった。破れたところからは灰色の下地が見えていたのだが、下地に重ねられたように赤い染みが広がっていた。
誰かが上手くして忍び込んで、いたずらでもしたのだろうか。俺は近づいて、触れないまでも顔を近づけてみる。赤いと言ってもかなり古いものであるらしく、ほとんど褐色に近い色まで褪せていた。厚みはなく、ペンキではないようだし、それでも色が付くとなると。
まさか、と思ったが、思い直して俺は興味を失った。血生臭い話は聞いていない。
こうして、俺はこの建物を一通り見て回った。屋上には行かなかった。どうせしっかりとした点検はこの後に行われるのだろうし、ひとまずどんな建物なのかを調べに来ただけだから、どうでもいいと思ってしまったからだ。こんな建物に期待などされていないのだ。必要なのは土地だけで、あくまで使えれば儲けもの、と言った程度だった。
俺は再び勝手口から出て、きちんとその鍵を閉めた。また裏庭のジャングルを抜けなければならないとなると憂鬱だが、国道まで出ればクーラーのばっちり効いた愛車が迎えてくれるし、確か自動販売機もそこらへんにあったはずだ。俺はごくりと喉を鳴らし、花壇の成れの果てを踏み越えた。
三 あいあおうことなし
私は息を止めて廃ビルを見上げた。芯から熱された空気を、ほんの僅かだけ冷やしながら風が過ぎていく。音を全て吸い込む青い空に向けて、灰色のビルがまっすぐにそびえている。
廃墟「関ビル」。この建物のことはよく知っている。昭和エム年定礎の四階建てビル、一階と二階は本屋「関書房」。三階には喫茶店「カフェ・関」。四階は住居になっていて、関一族……ビルを建てた関京太郎を筆頭とした、一家とその親類全てがかつては住んでいた。かつての話だ。私はくすりと笑って、過去の話をする必要はないよね、と呟いた。
面した国道エヌ号線は、普段からほとんど車通りがない。全国張り巡らされた途方もない数の国道の中だからこそ、こういった場所も多いものだと聞いている。決して必要ないというわけでもないのに、特別に使われることもなく、それでもなお消えうせることもない。獣道のように、獣が守り続ける数多の街道、空っぽの道。人が歩き、そこに住む限り、必ず道は残り続ける。例えそれが国道であろうと獣道であろうと、規模の大きさの違いに過ぎないらしい。
私は関ビルの勝手口の前に立っていた。壁面に馴染ませるように灰色に塗られた扉は、何年も開いた様子がなく、取っ手にまでも砂が被っていた。私はその埃を丁寧に取り去り、それからゆっくりと取っ手を回した。取っ手は人肌まで暖まっていて、かちり、鍵の外れた音が庭園に響いた。
このビルの住人の一人が趣味で作ったあの庭園も、既に雑草が生い茂り、かつての構造は面影程度にしか残っていない。ビルの中は放置されていただろうけど、やっぱり荒れているのかと思い、私は息を吐いた。どんなになっていても、この廃墟は関ビルだ。見届けないわけにはいかないだろう。
中の空気は、私が考えていた以上に暑かった。勝手口が長い時間を経て再び開いたにも関わらず、空気が勢い良く流れ込んで行くことはない。出口のないところに風は入らないからだ。
廊下はまっすぐ続き、奥から漏れる真っ白な明かりが私を手招きしていた。私はその呼び声に従い、ゆっくりと歩みを進めた。私の知る廊下の光景が過ぎ去っていく。
かつて本屋だった板張りの広い部屋。靴の裏で埃の感触を楽しみながら、私は真っ白な窓に目を細めた。白く霞んだ人のいない国道の向こうに、ワンポイントのように自動販売機が揺らいでいた。昔、あんなところに自動販売機はなかった。
私が見上げた天井は高く整然と蛍光灯が並び、吹き抜けとなるともっと高かった。薄汚れた壁と棚がゆったりと囲み、音を鳴らすものもない。いつの日か賑わい、ざわめき、静寂に包まれたことを憶えていれば、寂しさを感じるだろう。あるいは関係のない人間、これから生まれる全てでさえ、感じるかもしれない。
窓の向こうを赤い車が現れ、減速して自動販売機の前で止まるのを見ながら、私は吹き抜けを貫く大きな階段に足をかけた。そこでふと足元にハンカチが落ちていることに気が付いて、私はそれを拾い上げた。カーキ色の地味なハンカチだった。畳まれてはいるが、少ししわが寄っていた。
誰かが使い、誰かが落として、そしてここに至る。それまでにどのような物語を見てきたのか、あるいは見ていないのか。私にはわからないが、誰かわかるのだろうと信じている。根拠などなく、ただ信念だけを以って。
私はハンカチを手放した。風に揺れることもなくすとんと落ちたハンカチは、パサ、という小さな音を立てて床の上に止まった。手に取るものはいない。私はハンカチから興味を失い、二階へと階段を登った。窓の向こうの赤い車が、再び走り始めるのが見えた。
関書房の辞書と学術書、それにコミックや少年誌を集めていた二階。内装は一階とほぼ同じ板張り床。夜になるたび、吹き抜けを跨いだ大きな窓に映る夜景を見るのが好きだった人。その全てが今はもうそこになく、埃とテーブル、いくらかの椅子だけが二階を支配していた。
足の欠けてしまったテーブルは壁にもたれかかり、さも心配でもするかのように椅子は並んでいた。私は慰めるようにテーブルを撫でて、指に付いた埃をふっと吹いた。もうこのテーブルが活躍することはない。かつて子供達が寄りかかってはしゃいだこのテーブルも、遅かれ早かれ処分され、何もなかったことにされてしまうのだろう。誰もテーブル一つを思い出すことはないし、どこかに記録されているなんていうこともないだろうから。私はテーブルと椅子から離れ、二階の奥へ進むことにした。
二階だけに限らず、各階の奥はエレベータホールになっている。エレベータは止まっているから、待つために作られたホールの意味は既に失われている。昭和に建てられて以後騙し騙し使っていた型の古いエレベータ。黒く滲んだ一から四の文字、塗装の剥げた扉。朽ち果てるときを待っているのか、あるいは再び使われる日を待っているのか、エレベータは語らない。語ることはない。
私はその隣の階段を使って三階に上がろうとした。エレベータの扉の奥で、低い稼動音がした。無理をしなくてもいいんだよ、と私は呟いて、それでも、エレベータは二階を示してランプを点灯させた。それが自分の誇りだとでも言わんばかりに、太陽と光を競っていた。
奇跡とは思わない。人が望み、人が作り、人が愛し、人が失ったものに心がないと誰が決めたのだろう。私は確かに、エレベータが答えたように思ったのだ。
私は一人頭を振って、再び階段を登り始めた。次の階層は三階。喫茶店のあった階だ。
喫茶店「カフェ・関」は繁盛したか。答えは否と言えるだろうけれど、店主がそれを悔やんでいた様子はあまりなかった。悔やむくらいなら最初からこんなところで開店しない、お金のためなら他に幾らだってすることはある、なんて言っていた。
私は黒檀のカウンターの中に入って、いつかのことを思い出していた。コーヒーには少しこだわっていたこと。そのせいで売り上げに響いても、困ったように笑って誤魔化していたこと。コーヒーメーカーを壊してしまって死ぬほど怒られたこと。新作ケーキを作るために、飽きるほどケーキを食べたこと。出来上がったケーキがあまりにも普通で呆れられたこと。どうしてか定番メニューになってしまったオムレツのこと。そしてその作り方。
遠い日のこと、私はここでいつか暮らしていた。店主が一目ぼれした天井扇。店主の希望で作ったやたら大きいカウンター。店主の希望だけでこの喫茶店は出来ていたのだ。全てが終わった今となっては改めて痛感できる。あの人は幸せだろうか。幸せだったろうか。幸せでいるだろうか。
私はカウンターの上のメニューに気が付き、それを手に取った。かつてこれをもって店の中をせわしなく歩き回ったものだけれど。私はメニューをパラパラめくって、中に一枚の紙を見つけた。
紙には、延々と店主の文字で言葉が綴られていた。
それをそっと手にとって、私は喫茶店を出た。さようなら。静かに閉めた扉の隣に、看板が一つ「カフェ・関」。見慣れた看板をそっと外し、廊下の隅にそっと伏せて、私は階段へと向かった。もう振り返れない、と自ら制しながら、手にした紙をきゅっと握って。
四階。私がかつて住んでいたところ。あれからどれくらい経ったのだろう、と自問したけど、ぼうっとした頭から返答はなかった。すぐ昨日のようにも思えるし、何十年、何百年と経った話のようにも思える。
かつて私の住んでいた家。私の帰るところだった場所。私はドアノブを握ったまま、開けることが出来なかった。今どうなっているのか、想像は付く。けれど、さようならを言ったときの綺麗さっぱりしたままでいて欲しかった。願っても仕方ないことだ。時間は何もかもに平等に訪れ、何もかもを衰えさせ混ぜこぜにしていく、わかってはいた。わかってはいたんだ。
私はドアノブから手を離し、扉に背中を預けて座り込んだ。扉はやっぱりほんのりと暖かかった。
「君が迷うときはあるだろう。君は若いのだから。君の迷いが無意味でないことは私が保証しよう。私の保証がどこまで通ずるかはわからないが、私が保証した事実だけは忘れないでくれれば嬉しい。事実は永遠だ。誰も覚えていなくても、君を守り続けてくれるはずだ。自己満足と言って笑っても構わない。確かにその通りなのだ。私は君の意見なんてこれっぽっちも聞かずに自己満足しているだけの愚か者なのかもしれない。だが、私は君を信じている。君はきっと私より強い子だからだ。知っているだろう、世界は君を傷つけることもないし、決して助けることもない。全ての人にはそれぞれの世界がある。君の世界を信じ、誰かの世界を評価してやって欲しい。できることなら、君を信じた私の世界を愛して欲しい。誰かが君の名前を呼ぶとき、君の世界は輝くだろう。だから、誰かの名前を読んでやって欲しい。人は一人でも生きていける。生きていけるだろう。だが、それでは何の意味もないのだ。それを憶えていて欲しい。君の糸と誰かの糸が相逢おうと信じて」
私は屋上へ続く狭い階段を上がっていた。手すり一つなく、他よりずっと急な階段。滑り止めのゴムさえなく、壁を登るような不安な気持ちが私を包んだが、それも長く続くことはなかった。屋上へ続くドア。私もここから出たことは一度もない。そっと手を伸ばし、ノブを回してみた。どうしてだろうか、鍵は掛かっていなかった。
ゆっくりとドアが開き、どこからかセミの鳴き声が聞こえ始めた。
相変わらず太陽は高いところにあって、屋上は反射する熱もあってむせ返るほどに暑い。私は柵越しに遠くを見つめた。同じ様な色の建物が、それぞれの物語を内包しながら、一見それぞれは淡々と、それでも誰かが思いを馳せている。愚かなことだろうか。そうかもしれない。物語は愚かなものばかりだ。悲劇ですらなく、喜劇と言うには切なすぎる。真実は小説よりも奇妙だけれど、小説みたいなことは起こらない。不治の病に倒れた友人も、永遠に離れ離れになった恋人も、私にはいない。それでも世界は続いている。誰かを救うこともなく、誰に救われることもなく、適切な距離を求めて世界は変容し続けている。
沈黙した貯水タンクは長らくの雨と風に真っ黒に汚れ、それを見下ろす空は一面真っ青で雲ひとつなかった。ありがとう、と私は言ったし、誰かが言ったように私は信じた。世界は観測によって形作られる。あると願えばそこにあるかもしれない。なら、信じてみようと私は思った。間違いないんだ、私はこの世界を愛している。この無意味な廃墟も、愚かな私達も、それを包む意志や道徳、環境、神秘、なぞなぞや問いかけの数々、そんなものが好きだから、私はここにいる。
店主の書置きを折って、私は紙飛行機を飛ばした。シンプルな三角形の飛行機は、空中で一回失速して、緩やかに落ちながら弧を描いて飛んでいった。
もう、そこには誰もいなかった。
あの紙飛行機はどこへ行くだろう。私にはあずかり知らぬ世界の話に思えた。