「霜ふたはしら」
それは、冷えきった土から、寝ぼけたように薄く煙る朝のことだった。
いい加減初詣に行くことを声高に主張され、俺と京香は近所の神社を訪れていた。
参道の先、京香のお気に入りの白いコートが楽しそうに揺れるのを恨めしそうに睨み、俺は首をすぼめる。
「そりゃ忙しくて後回しにしてたのは悪かったけど」
「んー?」
俺の言葉を待っていたらしく、京香は笑いながら振り返った。彼女の小さくまとめられた後ろ髪がマフラーの端からぴょこんと出るのが見える。
「何もこんな寒い朝に来なくたっていいんじゃないか」
「まだそんなこと言う。忙しかったのは尚樹君でしょ。ちょっと寒くたって気合い入れないとね」
気合いだと京香は繰り返して笑う。境内の広葉樹の影がその笑顔を一瞬切り取り、瞳がきらりと輝いた。
「もう少し暖かくなってからでもいいじゃないか」
「そんなこと言ってると、多分来ないよ」
それについては返す言葉もない。そのようになる気もすると、俺は渋々一つ頷いた。
俺が参道をそのまま行こうとしたところで、京香は不意に呼び止めた。
「あ、ちょっと待って。手水。やっていこうよ」
見れば、小ぶりな手水鉢の淵から絶えず滴が流れているのが見える。こんなに寒い朝だというのに、水のほうは素知らぬ風に、透き通って空を映していた。
「ああ、寒いし、やらなくていいんじゃないか」
「こら」
俺が気のない返事を返すと、京香は怒ったようなそぶりで俺の脇腹を肘を立てる。コート越しの肘はあまり刺さらなかった。
「空いてるんだし。そりゃ、並んでるなら飛ばしちゃうけど」
そこらへんのバランス感覚は大事だよねと京香は笑う。
意外と普段からやっているのか、京香は慣れた仕草で手水を済ませる。一方の俺は、そうでもなかった。それもそのはずで、手水なんていつ以来やったかも思い出せないのだ。
「左手にかけて、で、口をゆすぐ……だっけか」
懸命に朧な記憶を手繰り寄せたものの、俺は諦めて適当に済ませることにした。そんな様子を見かねて京香が俺の肩を叩く。
「右手で柄杓を取って、左手を清めて、左手に持ち替えて」
「すまん。もう一回」
「んもう」
説明はありがたいが、どうにも考えがついていかない。俺は右手で柄杓を取ったまま首を捻った。京香は呆れたようにわざとらしくため息をついて、社会人の常識だよ、と小言を付け加える。
「そうね、わかりやすければいいのかな」
「そうしてくれると助かる」
「素直でよろしい」
京香はいたずらを思いついたような笑みを見せると、しゃがみ込み、傍の地面に手をつく。
「何やってんだ」
俺が疑問を浮かべていると、がさがさと土をなでたのち、彼女は俺にその掌を見せつけた。血行のあまり良くなそうな細っこい指先が土の色を帯びている。
「こうすると、汚れるでしょ。それと……こうかな」
これで仕上げと言わんばかりの態度で、京香は頬にすっと線を引いた。まるで猫のヒゲのように一本のくすみが走る。
「手水は、穢れを落とすのが目的なんだって。穢れは水で落とせるけれど、無くなることはないの」
京香は言って、汚れた右手でゆっくりと柄杓を取った。
「まずは柄杓を右手で持って、左手をすすぐの」
柄杓からぼたぼたと水が垂れ、京香の左手が清められる。先ほど付けた土が地面に返っていくのが見える。彼女はそれから、柄杓を持ったままの右手を示す。
「こうやって持つとさ、柄杓のほうも汚れちゃうじゃない?」
「確かに」
「だから、これから左手に持ち替えるけど……今右手で持ったところは、汚れてるからもう触っちゃダメなんだ」
言いながら、京香は柄杓を持ち替え、右手を清めた。
「これで両手は清められたけれど、汚れは体の中にもあるから、それを吐き出す口を綺麗にするの」
京香は改めて柄杓を持ち替え、水を注いだ左手で唇を遮った。
「こう。本当はゆすぐんだけど……私はいいと思うな」
その仕草が妙に色っぽくて、俺が思わずじっと見入っていると、京香が目を泳がせ始める。
「なんか、気恥ずかしいねこれ」
それから彼女はそっと左手を唇から退けた。唇の感触を惜しむように指先が最後まで残り、それから頬についた穢れをぬぐう。
「あとは、口を清めた左手をもう一度清めれば、おわり。柄杓を清めて後片付け」
さあやってみてと、京香は俺に清めた柄杓を手渡した。
「といっても、これも全部、多恵さんの受け売りなんだけどね」
種を明かすように、京香は義理の姉の名を出した。
「作法ってのには必ず意味があって、大事なことなんだけど。その意味さえわかっていて、そのようにしようと思っているなら、作法自体には何の価値もないんだって」
そして、だから、と続ける。
「汚れた手と顔があって、それが綺麗になってればたぶんいいんだよ。こんなこと言うと、鈴ちゃんは怒るかもだけど」
俺が手間取りながら手水を済ませるのを眺めながら、京香はからからと笑う。
「よくできました」
絶対にそう思ってはいないだろう。俺は居心地悪そうに笑ったが、京香は嬉しそうに笑っていたから、それ以上は何もいわないことにした。
それじゃあ行こうかと京香は手水舎を離れた。さすがに少しの気恥ずかしさもあったんだろう、ほんのり横顔が赤かった。俺はその後ろを歩きながら、改めて考える。
「作法には必ず意味があって、その意味さえ守ろうとするなら、作法そのものには意味がない──」
「そうそう」
遅れて繰り返した俺の言葉に、振り返ることもなく京香は頷いた。
「ああ、そうか」
最初からそれが目的だったんだ、と俺は納得する。前を行く京香に駆け寄り、手を伸ばした。
参拝なんて、神様には悪いけど、名目に過ぎないってことだ。そういうことだろう。
彼女の白いコートが揺れ、歩み出た俺のコートの裾に触れる。きんと冷えた指先が、嬉しそうに握り返してくるのがわかった。
それは、冷えきった土から、霜柱が薄く煙る朝のことだった。