「赤熱のトラッド/イルソリ・ホワイト」
ただ、キャプテンとだけ呼ばれている一人の有能な男がおりました。彼は若くして宇宙船を手に入れて活躍し、莫大な富を得たといいます。彼は魅力的でしたから、彼の周りには多くの人がいて、彼は幸せな人生を送っていたそうです。ですが、男はあるとき突然船を手放してしまいました。船を捨て去った彼はすぐに人々から忘れ去られましたが、船員だったギタリストとシェフ、そして一匹の猫型アンドロイドだけは変わらずにキャプテンと呼び従っていました。キャプテンは船を手放した理由を、彼ら以外誰にも言いませんでした。キャプテンはその後無人星を買って住み、何十年もの研究の末、一つの機械を作り上げました。キャプテンがその機械を起動させると、機械は猫型アンドロイドの口を通してこう問いかけました。
「世界の構造を知るには、エンターキーを押してください」
キャプテンと二人は迷わず押しました。気がつくと、ギタリストとシェフは小さな浅瀬の村におり、彼らは何故かそれまでのことを憶えていませんでした。彼らは村で暮らし綺麗な伴侶を得て、豊かに何十年もの歳月を送ったといいます。ある日、老いたギタリストが久しぶりにギターを手にし、ふと覚えのない曲を奏で始めました。それを聞きつけたシェフが、どうしてか即興で歌いました。実はその曲は、昔キャプテンが良く歌っていた曲だったのです。
そこで二人はエンターキーを押した瞬間に戻っている自分に気がつきました。彼らはそれまでの人生を思って、泣きました。二人はその後、無人星で生涯を過ごしましたが、キャプテンと猫型アンドロイドはついに、戻ってはきませんでした。それ以来、キャプテンと猫型アンドロイドの異世界での話は、様々に推測されて、語り継がれているのです。
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二人は落ちこぼれで、愚か者で、愛すべき子供だった。それは過去事実であり、未来永劫そうであるのかもしれない。ある男はそう歌うだろう。どうして私達は彼を羨み、彼女を愛し、敬い、信じ続けるのか、それを歌い問いかけるだろう。決して派手にギターを掻き鳴らすこともせず、かといって静寂に耐え切ることもなく、ただ歌としての体裁を保つためだけに奏でられた和音の群れは、多くの人々の心をほんの少しだけ揺らす。それは、彼と彼女を英雄だったと認めるだけの歌だった。
辺境の星の話をしよう。惑星イム、知るものには単にイムと呼ばれる星系は、貴方の座すこの街から遥か遠く、確かめようのない遠くにある。
イム星系第三人工星。通称「第三」。月ほどの大きさを持つこの星は、青い空と海を持つ平凡な地球型人工星だ。この星を訪れる人々は、まず一様にその特異な地形に驚くだろう。この星の地図を見ると、大陸は何一つもなく、無数の孤島が散らばっているだけなのだ。人工星の地図として、これは極めて奇特なものだった。
理由は、この星丸々一つが教育機関として建造されたことにある。簡単に言ってしまえば、このバラバラに散った合金の浮き島全てが子供を育てる「教室」だったのだ。
五月二十六日、イム星系標準時で二十二時三十六分。
軌道唯一の大型宇宙港「軽銀」は一台の仮想振動推進式宇宙船の寄港要請を受けた。要請はいつも通り担当の職員の管理コンソールに送られ、ろくに確認もされぬまま受け入れは許可された。メッセージの自動送りを復帰させた職員がいつものように一息吐こうとして、システムからの音声報告に驚いて手元のお茶を零した。彼が驚くのも無理はない。彼らの元に向かうその宇宙船は、誇り高い地球産のものだったのだ。
地球でも宇宙開拓時代には安宇宙船が多く作られたが、それらが既にスクラップとなったか博物館に飾られている今日、地球の宇宙船は即ち例外なく英雄的な最高品質の宇宙船だった。
すぐさま全職員が招集され、「軽銀」は色めき立った。万年つなぎで過ごしていた職員達が突然背広をコンテナから引っ張り出したものだから、コンテナの出し入れ職員が操作を誤って小麦粉コンテナを一つぶちまけたし、それは賑わいというより混乱といった様相だった。特別ポートを清掃する職員名簿が突如として十倍に増えたし、実際には三十倍を超える人数が掃除機を片手にガラクタを押しのけていたり、軽い衝突事故を起こしたりしていた。
混乱の数時間はあっと言う間に過ぎて、その宇宙船は音もなく宇宙港「軽銀」の特別ポートに収まった。似合わない背広に身を包んだ職員、それにこっそり特別ポートに残った掃除係一同が、呆けた顔で宇宙船を見つめていた。地球時代調の白地に青の優美な機体で、名を「サークレット」と言う。最早職員の誰もがその名を知っていた。
宇宙港「軽銀」第一ターミナル、特別ポート直結の客室に、「サークレット」の船主は通された。その壮年の男はヤシロと言い、数十年前に宇宙船長「キャプテン・ホワイト」をパトロンとして研鑽を積み、彼が失踪した後に全宇宙的な歌手と駆け上がった男だった。
彼の歌はその全てが絶賛されているが、中でも最も有名な曲は「サークレット」だろう。優美な船名の元となったこの曲は、彼が有名となった初期に作られたものだった。
使い込まれていないソファに沈みながら、ヤシロは紙巻タバコに火を付けた。
「ヤシロ様、『軽銀』にようこそお出で頂きました」
タバコを丁寧に灰皿の縁に置き、ヤシロは立ち上がった。
「どうも、……ヤシロです、初めまして」
「これはどうも御丁寧に。イワイと申します。この『軽銀』の総責任者をしております」
ヤシロは手を差し伸べ、イワイはその手を取って笑みを浮かべた。学の高そうな雰囲気を漂わせ、それでいて高慢そうでなく、超然とした雰囲気を持つイワイに、ヤシロは問いかけた。
「イワイさん、もしかして、失礼かとは思いますが、地球生まれで?」
「ええ」
イワイは恥ずかしそうに笑った。ヤシロはやはり、と笑った。
「知っての通り、僕もですよ」
地球生まれに特徴があるわけではない。推測はヤシロの勘だったが、彼らはおおむね最高の教育を約束され、そのほとんどが宇宙の重要な役職にいたし、態度に特徴があった。
「こんなところに地球生まれがいるなんて、と思うでしょう?」
ヤシロは軽く否定したが、イワイは続ける。
「気にしないで下さい。大体みんなそう思っているんですよ」
「はあ」
地球生まれはそれだけでエリートだ。だからこそ、こんな辺境にいる地球人は何かしらヘマを踏んだのだろう。ヤシロは灰皿から懐から古式のタバコケースを取り出した。
「喫ります?」
「いいんですか? ええ、ぜひお言葉に甘えて」
最低でもタバコの煙を吸ったことくらいはあるだろうし、喫煙習慣がなくても勧められたことの一度や二度はあるだろう。ヤシロは、予想通りにことが運んで嬉しくなった。若干たどたどしい手つきで、控えめに煙を漏らしたイワイは、数秒ほど目を瞑ってから言った。
「タバコも久しぶりです。折角喫煙室があるのに、タバコなんてこっちには回ってこないんですから。イムにはタバコ畑ないんですよ」
「話には聞いています。現存する中で最も……その、簡素な人工星系だと」
「ええ。はっきり言ってしまえば、原始的ってところですよ。嗜好品は輸入に頼っています。あんまり流行らせるわけにも行かないからでしょうね、タバコ一本がまるで黄金ですよ」
「大変なんですね。その、色々と」
「ええ、まあ」
営業スマイルなのか、本心なのか、にんまり笑ってイワイは続けた。
「でも、いいところですよ、ここは。観光地じゃありませんけど、景色は素晴らしい」
イワイは灰皿にタバコを置いて、ゆっくりと椅子を立った。
「ここからは、いつでもイムのどれかの星が見えるんです。ああ、今日は第三ですね。素晴らしい景色ですよ。第三を見るたび地球を思い出すんです……あの、青く、白い星」
ヤシロは「第三」を見下ろした。闇に浮かんだ小さな球。バラバラと散った緑の粉が、まるで蝶の羽のように真っ青な星を包み、そして白い雲の筋が衣のようにその間を漂っていた。
「イワイさん。……本題に入りましょうか」
「ええ」
「第三への着陸許可を出して欲しいんです」
イワイは目を丸くして、それから頷いた。
「ふむ。いいでしょう。……何、文句なんて誰も言いやしませんよ」
イワイは有能だった。事前に話もつけていなかったから、準備などしていなかったはずなのにまるで魔法のように準備を整え、自ら「サークレット」の整備を手伝い、一週間も掛からないうちに、ヤシロを第三に運んだ。
「いやあ、実感しますよ、やっぱり辺境なんですね」
イワイが作業用ホッパーのエンジンを切り、にこやかに笑った。
イム第三人工星、北緯三五度、東経一三九度。ヤシロが入念に指定したその地点には、見渡すばかりのススキ野原と、既に稼動していない一件の居住施設が残っていた。
「第三星工員教育施設、第一期地域、区画三九、八七ニのA」
いまどき珍しい紙の資料を手に、イワイが居住施設の窓を覗き込んだ。元々は居間だったのか、灰色に曇った窓の向こうに壁掛けのモニタが見えた。
「荒れきってますね」
「ええ。十五、いや、二十年は使っていないでしょうから。今扉開けますね」
イワイは懐から年代もののカードキーを取り出し、扉のスリットに通した。返事はなく、何度か通してみても応答はない。
「おかしいですねえ。電源系統がいかれてるかもしれませんよ、これ」
「すると、開かないんですか?」
「大丈夫です。こんなこともあろうかと思って、工具を持ってきたんですよ」
作業用ホッパーの物入れを開けて、イワイは工具箱を取り出した。
「ちょっと待っててくださいね。今ちゃちゃっと開けてしまいますから」
初めて見たときから変わる様子のないドライバーやニッパー、そういったものを漁りながらイワイは笑って言ってのけた。
「似てますね」
「……誰とです?」
早速扉のロック機構を開けに掛かったイワイは振り返りもせずに言った。
「キャプテン・ホワイトと、ですよ」
イワイは一瞬だけ手を止めた。キャプテン・ホワイト。この銀河で最も成功した男。ヤシロの才能を見出した宇宙船長であり、百の星を発見し、千の新技術を考案、改良し、万の人間を従えてキャプテンの中のキャプテンと呼ばれ、単にキャプテンと言えば彼を指すほどの男だ。
「……慕っているんですね」
「どうでしょうね。キャプテンは」
キャプテンが表舞台から姿を消したのは二十年程前の話だ。彼はほとんど全ての財産を捨て去り、共に行くことを願う人々を一人一人断り、最終的に一つの無人星に住み着いた。それだけなら隠居とでも言えるだろう。だが、彼はそれだけでは終わらなかった。
「いや、キャプテンは不思議な人だったんです」
「同感です。……そう、生まれからね」
失った電気系統が奇跡のように回復し、スライドドアが音もなく開いた。
「知っていたんですね。さすがイワイさんだ」
「恐縮です。さあ、入りましょう。キャプテン・ホワイトの生まれた部屋へ」
イム「第三」から生まれた英雄は、恐れも憧れも何もかもをその身に受けていた。仮想振動推進や銀河曳航の業界で彼の名を知らぬものはおらず、そして今の行方を知るものは誰もいない。彼が宇宙船もないはずの無人星から忽然と姿を消したのは、もう二十年も前になる。
作業用ホッパーにはあまり物を積むことが出来ないし、振動が厳しいから、本来なら繊細な荷物は置いていくべきだ。イワイは一回だけそれを事実として伝えたが、それ以上のことは言わなかった。ヤシロの載せた一本のクラシックギターの話だ。
ヤシロはギターを片手に、古くなったソファに腰掛けた。幾らキャプテンが生まれ育った部屋だとしても、部屋自体はありふれた旧式の全自動居住システムに他ならない。ヤシロも随分昔にこの種のシステムに住んでいたことがあったし、懐かしさ以上の何者もここにはない。
「キャプテンはどんな人だったと思います?」
ギターのチューンを始め、ヤシロは問いかけた。
「有能で、理知的で、物腰は優雅で優しく、そう聞いていますよ」
「でしょうね。でも、それは彼の一面なんですよ、イワイさん」
「と言うと、彼にも、無能で荒っぽく、救えないようなところがあったと?」
ヤシロは単音を鳴らし、強く弦を引いた。
「ないわけがないじゃないですか。僕はね、彼が英雄に祀り上げられているのに違和感があるんですよ。彼だって聖人じゃないし、豪傑でも天才でもない。ただ少し運が良かっただけの、優しい寂しがり屋だった」
ギターのボディをこんこんと叩いて、ヤシロはテンポを取った。超絶技巧とも思えない静かな滑り出しが、彼の最も有名な曲を形作った。
「『サークレット』?」
イワイの問いには応えず、ヤシロは続ける。ストロークは決して強いものではなく、かといって静寂に沈むこともなく、ただ音を切らさないためだけに奏でられた和音の群れだった。
「ホワイトが宇宙船を手放し、キャプテンでなくなった後の話は、あまりしないことにしているんです。彼の真意が、未だに掴めないから」
「すると、もしかして」
「ええ。僕は、彼と一緒に、あの無人星にいたんですよ」
キャプテン・ホワイト。辺境の地、惑星イムの労働者となるべくして生まれ、類稀な理学の才能を盾に、宇宙へと足を進めた男。若くして宇宙船を手に入れた彼は、まだ無名だった頃のヤシロを見出し、サークレットの前身となった一艘の船にヤシロを載せた。
「古い付き合いだったからでしょうか。彼は身の回りの世話人さえ解雇したのに、僕みたいな音楽しか能のない人間を傍に置き続けたんですよ」
ホワイトはこうも言っていた。ヤシロは続ける。
「『人が人として生きるのに、君は何が大切だと思うかい?』と彼は度々聞きました。その度に僕は答えに詰まって、ホワイトは言うんです。『俺はこう思う。音楽、絵画、文芸、方法は何でもいい。表現される感情こそが人間の由縁だと』」
「だから、ヤシロさんは最後まで付いていけたんですね」
「どうでしょうね。使いやすい人間だったからかも、身寄りがなかったからかもしれません。今となってはホワイトも戻らない。確かめる術もありません」
サークレットと名づけた彼の曲の伴奏だけが続く。何千何万回、それでは効かないくらいに演奏し続けた曲だ。ヤシロにとって、この曲はすでに体の一部と言っても良かった。
一方のイワイは緊急用のコンロを起動させてみて、高く吹き上がった炎を慌てずに消した。
「信頼されていたんですね。少し、羨ましいような気もします」
「僕が彼の最後に立ち会ったのは、彼が望みだったのか、それだけが今もわかりません」
ヤシロは「サークレット」のサビだけを歌い上げる。それを待って、イワイは言った。
「すると、彼はやはり……亡くなったのですか?」
丁寧に音符をなぞって、ヤシロは曲を終末へと導いていく。もう盛り上がりをみせるところもなく、慣性のように旋律は続いた。
「彼はこの宇宙の構造を知りたくなったんですよ」
「宇宙の構造ですか? 数十年前に宇宙の果ては見つかった、という話ですけれど」
「そう。果てがあるということは、向こうがあるということ……彼の好きな話でしたよ」
イワイは考え込み、応えなかった。ヤシロは気にしないでギターを鳴らす。
「あの無人星には、ホワイトと、当時最新鋭の猫アンドロイド……名前は確か、そのまま『ネコ』と呼ばれていたかな。それに僕、そしてもう一人、料理しか能のない奴がいました」
その料理人もまた、ヤシロと同じで料理だけにおいて天才的った。
「ホワイトはあの無人星に行ってから、ある機械を作り上げたんですよ。むしろ、きっと彼はあの機械を作るためだけに、全てを手放して無人星に引きこもったのかもしれません」
「どんな機械だったんですか?」
「彼は『ゲート』だなんて洒落込んでいました。世界の、この宇宙の果てを超えて、向こう側へ出るための小さな門だって」
「門、ですか」
「ええ。僕らは、全員その『ゲート』を潜ったんですよ」
ヤシロは溜息をついて、首を振った。
「結果として、多分あの機械は間違ってはいなかったんだと思います。僕と料理人の彼は戻って来ました。戻って来られました。でも、ホワイトとネコは、向こうへ行ったまま、帰って来られなくなったんです」
「つまり、キャプテン・ホワイトは違う世界へ行ってしまった?」
「ええ」
「ホワイトは、きっとまだどこかの世界で夢を見ているんでしょう」
「夢、ですか」
「僕は帰ってきてしまった。僕が『サークレット』を手にしたのは、もしかしたら失ったものの代わりだったのかもしれません」
ヤシロはそう言って、「サークレット」の演奏を終えた。弦をなぞった指からフレットノイズが響き、それが止んでから、彼はギターをハードケースへとしまった。
「ホワイトがどこの世界へ行ったのかは知りませんし、もう確かめることはできない。彼は鍵を持っていってしまった」
「ねえイワイさん。滑稽な作り話だと思って聞いてください」
イワイは黙って傍らに立ち、ヤシロが立ち上がるのを待っていた。
「夢の中に降りた男が、平和な場所にたどり着いてその村の娘と恋に落ち、夫婦になって子供を作り、年老いて人生を振り返ったとき、ふとある旋律を思い出した」
イワイは頷いて、先を促す。
「旋律は、夢見る前に手に入れた大切な思い出だった。男は自分が夢の中にいることを思い出して、そして夢は醒めてしまった。男は眠りに落ちたその瞬間に戻り、失ったものも、手に入れたものもない」
ヤシロは立ち上がり、行きましょうか、と呟いた。先ほどイワイが直したスライドドアは問題なく動作しているようで、正常に彼らを送り出した。
「夢の中の妻はどこにもおらず、思い出話が通じる相手もいない。年経た心だけが残り、誰も何も知らないし覚えていない」
ススキ野原の真ん中に建つキャプテン・ホワイトの生家は、やはりどうということのない空き家だった。ヤシロもそれはわかっていたが、見てみたかった。彼が一体どういう人間だったのか、それを少しでも知りたかったのだ。
「夢の中に愛する人を失ったら、どこを探せばいいんでしょうか」
「必ずどこかにいますよ」
イワイは笑顔で答え、ヤシロは彼女を抱きしめた。逢って間もない彼女は、妻の面影も何もないのに、少しだけ涙の香りがしていた。