「うみのゆめ」
多恵の機嫌は悪かった。念入りに化粧をしてはいたものの、目元に滲む疲労は隠せていない。「ねえ、多恵ちゃん」「何よ」京一と多恵の二人は巨大な岩の上におり、東京・品川の街を見ている。岩の名前は、品川富士といった。高さ大きさはさほどでもない。けれど、覆う木々はなく、空が近かった。
「海が見えたのよね」多恵は確かめるように尋ね、しゃがみ込んだ京一の頭に手を置いて、そっと撫ぜた。二人が見る東の地平には、かつて海だけがあった。「だから海に所縁のある神様を招いた。遠く、遠くから」波の音が聞こえただろうか、潮の匂いがしただろうか。この神社からはどう見えただろうか。
「見晴らしいいって聞いてさ」横に走る京急の高架が、白い波と重なる。「本当のところはどうだったかとか、わからないけどさ。調べればわかるかもしれないし、間違った知識ってのも良くないことかもしれないけどさ」男は笑い、多恵の指先にそれが伝わった。「ねえ、今、何か見えた?」
史実とはきっと異なるだろう。うねる参道の向こう、魚を抱えた影が歩く。その格好はなんだっただろうか、ぼんやりとして決められない。「きっと、そうね」これは疲れが見せた幻覚に過ぎない。多恵はそう思った。ただ、ちょっと喜んでいる感じがしたことは、やっぱり間違いないと思った。