「夜時雨より 朝時雨」

「夜時雨より 朝時雨」(「艦隊これくしょん」二次創作)
【前作「夜時雨」はこちら】

 娘はやおら立ち上がり、ふぬけた青空とさざなみにかけらを放った。かつては護岸であったそれは、ごつごつした面とそうでない面をくるくると回し、音も聞こえないほど遠くに「とぷん」と落ちた。擬音に娘が振り返ると、桃色の髪の女がとぼけた顔で笑っていた。

「四式の話なんだけど、やっぱり資源の配分がおりないみたい。必要になれば前向きにはっていう話だけど」彼女は幾分か安らいだ口調で言い、娘のひとつ跳ねた髪を撫でつけようと試みる。「必要になればなんて、遅すぎるのにね」娘はそれにゆっくりと頷いて、辺りを見回す。

 海を迎える固め石はそこかしこで割れ、えぐれたように破砕したものも幾つかあった。片付けはされたが、痕跡は残る。「ね、毎日さ、ここに……」娘は詮索を望まず、桃色の髪の女もそれはわかっていた。故に望まれたように言い換える。「壊れたら、修理してあげるから」

 ちょうど都合よく冷たいラムネを持ってきたのだと、女はとぼけた顔でごまかした。娘はかすかな嘘の気配を嗅ぎとりながら、その心遣いには大きく感謝した。二人並んで飲んだ炭酸は、夕暮れの赤の色のそれ以上に、どこか潮のような味がしていたという。

--

 とおうからり、とうからりん。木肌と支え金が触れる音をそう言う。技官がそんな嘘をつくのを聴きながら、娘は魚雷の側面を磨いていた。直射の当たった屋根はくらくらと陽炎を起こしており、炉の中で働く娘の首筋にも珠のような汗は滲んでいる。

 娘は疑問を投げる。技官がせっせと作る木製のフラッグは、今夜にも粉微塵となるだろう。割れれば大破、失えば轟沈。そういうルールのために使う。ところが技官は、支えの小さな金具を磨き、木目の端を柔らかく削ぎ、丹念にそれを仕上げている。

 壊れるものを、なぜこんなにも。娘の疑問に技官は答えた。それは綺麗に壊れるようにするためだと。心残りのあるものは、他の何かを巻き添えにしてしまうからと。娘は魚雷を磨く手を止め、そっと技官の手元を窺っては、再び作業に戻った。

 とうからり、とおうからりん。娘は鞠つき歌のように口に出してみて、その物言いに一理を感じた。その手の下にある計り知れない暴力が、正しく綺麗に壊れるように、優しく磨く。くらくらする昼下がりの風は、それでも、工場の奥まで届く気配はなかった。

--

 引っ越し。娘はその単語を繰り返し、目をぱちくりとさせた。開け放しの窓からは風のかたちでカーテンが踊っており、居室に涼気をもたらすことには成功していた。しかし、眼鏡を掛けたその女性は、そこに踏み込まないように立っているようだった。

「いつまでも、この部屋を開けておくわけにはいきませんから」女は事務的にそう言い、返答を待たずして日程を告げる。娘は何か言い返そうとして口を開いたが、言葉の端は捕まらなかった。この部屋の本当の主は、もうずいぶんと帰ってきていないのだ。

 眼鏡の女は、娘の返答を厳しい顔で待っていた。雲と艦載機がひとつ通りすぎ、それから諦めたようにふにゃりと表情を崩す。「気持ちはわかっているつもりです。必要なら、誰かに手伝ってもらってください。待っていますから」

 途端に聞こえる幾つかの気配に、娘は困ったように笑った。眼鏡の女が見るからに嫌そうな顔で廊下を窺うのを見て、それから尋ねる。次の主にも、そんな風に振る舞うのかと。「それが仕事ですから」秘書官よりも秘書らしく、女は告げた。

--

 軍服姿のそのひとは、部屋に入るやすぐにカーテンを開いた。呼び込んだ朝の光が、隅を陣取る段ボールの山を映し出す。そのひとは苦笑いを浮かべながら、早速中身をあらため始める。家具があったのだから、そのままにしておいてくれればよいのに。縁起など気にしないのだから。

 段ボールの中に茶封筒を見つけ、そのひとは笑っているような泣いているような、複雑そうな表情を浮かべた。記された日付記録は今から少し前、管理官の判の上に、工廠の主の署名がぞんざいに上書きされている。陽の光に透かせてみせてから、そのひとは封をびりびりと破った。

 封筒からは細く繊細な鎖が滑り落ちた。そのひとは掌のそれを愛しげに眺めてから、己の首にそれを飾った。歪んだ指輪のペンダントトップが些細に揺れる。「僕は、ここにいていいんだよね」そのひとは、司令官の代理たる証をきゅっと握りしめて、確かめるように言った。

 そして、居室の戸が叩かれる。新たな秘書官が来たのだろう。司令官代理は喜んでそれを迎え入れて、きょとんとしてから、ひどく愉快そうに笑った。その三つ編みの娘には見覚えがある。「白露型駆逐艦……」そのひとはその言葉を制し、かつてそうされたように、握手を求めた。