「魔女と石 1」

「魔女と石 1」

 ゆえに好ましく思うのです、けしてそのように見えなくとも。彼女は火照った体のままキーボードに伏せ、そうであるべきだったすべての幸せを単一のアルファベットで満たします。夢は見ず、虚ろに伸ばした手の甲の先に黒い石が赤いイルカの鳴き声をあげていました。

 視界の端で電源を喪ったスマートフォンが鼓動するのが見えています。見えないはずの電波と伝わらないはずの半導とであるにも関わらず、彼女の知覚はそこから未来視じみた何かしらを受けとるようになっていました。とりわけ、このような半分の眠りの中にいるときは、のことではありますが。

「全部あの石のせいだ」彼女はそのようにかたく信じていますし、それは恐らく正しい考えでした。机の端に無造作に置かれた飴玉ほどの黒い石柱。浸食された崖がそうであるように、方形の断面を幾つかさらし、血のように赤い樋が走っています。その見かけは明らかに尋常のものではありませんでした。

 彼女は誘惑に抗うこともできず、再び石に指先を乗せました。ちりちりとした痛みと、濡れたガラスのような吸い付く感触がありました。彼女はうなじの裏側から憐れみと感謝の気持ちを感じ、様々などこかの景色を見ては、後悔と残影におののきました。彼女のスマートフォンに着信が届きかけ、挫折します。

ーー

 この石は、彼女の祖母が持っていたものでした。遺品となったこれが日の目を見たのは、さほど前のことではありません。ですが、彼女は「この石に呼ばれた」ように感じており、それでもなぜだか、誰かに相談するようなことは許されないような気持ちがありました。とてもとても、不可解なことでした。

 祖母のことを思い出すと、この石の果たした役割はよく納得できました。彼女の祖母は、会えば決まって異国の話をして、生暖かいキスと甘いフルーツを振る舞い、そして彼女にだけこっそりと魔法の存在を語って聞かせました。幼い日には、魔女のようなその在りようを恐れもし敬いもしたものです。

 祖母もきっと、今の彼女と同じように、この石に血を吸わせていたのでしょう。未熟な魔女である彼女にとって、まだ石から多くを辿ることはできません。しかしながら、読み進める前のページを横から見るように、石に秘められるものに限りがないということは何となく感じとることができていました。

 恐れと憧れを半々に、彼女は石に触れることを止められずにいます。祖母を敬愛しながら、彼女はその愛情を伝えることもできませんでした。その罪悪感が、同じ道を歩くことについての肯定感を与えてくれているのです。もしかするとそれは、石の中に失せ物を探す行為なのかもしれません。

ーー

 煙のように漂う通話を見て、彼女はおもむろに手を伸ばします。「原稿は、締め切りは……」彼女は焦点の合わない眼差しとよだれの垂れかかった口元を正し、電源ボタンを強く押し込みます。誰から電話が掛かってくるのか、何の用件があるのか、未熟な魔女には既にわかりすぎていました。

 それは、予知でした。予見するに難くはない揺らぎの少ない未来ではありましたが、逸脱し始めた彼女にとって、それはちょうどよいくらいの難易度でした。「まだ、できてません。すみません」彼女の声は明らかに起き抜けのそれであり、形ばかりの謝罪と非難の色合いを招いたことは言うまでもありません。

 彼女の生業は本を書くことでした。元来の才能ももちろんあったのでしょうが、石を手にした魔女の力はあまりにも大きなアドバンテージだったと言えるでしょう。狂気と幻想に満ちた彼女の本は、彼女の精神を幾ばくか損ねながらも、ある程度安心できるくらいの立場を与えてくれていました。

「はい。すみません……間に合わせます」感情の読めない声が寝室に響きます。彼女が魔女として未熟である以上、本当に間に合うのかどうかは石の機嫌によるところが大きいものでした。そんなことを知らない電話の相手はひとまずの納得を得てくれたようで、念を押したのち、話題を切り上げました。

ーー

 電話の相手は咳払いののちに声色を変えました。仕事の話はここまでなのでしょう。この寝室でも聞きなれた柔らかい声が、彼女の体調を案じます。「風邪は、引いてない」彼女は冷たくそう返しましたが、電話の向こうの相手にとって不養生はお見通しである様子でした。今日はまだ何も口にしていません。

 夕ご飯を作りに行くと電話の向こうのひとは言いました。魔女は迷いなく断りましたが、それが無駄だということもわかっていました。鍵を閉めておくことはできるでしょうが、合鍵を渡したのも彼女自身の過去の行いなのです。「好きにして」少し掃除をしなきゃ。彼女は思いました。

 電話はそれきりでした。彼女はその忙しさを知っていますし、そうでなくては仕事として成り立たないようなものであることも知っています。少しでも楽にするために、自分は本を書かなければならない。彼女は無駄に打たれた液晶の文字を丁寧に削り取ってから、石の見せた夢のことを思い出し始めます。

 魔女は、これから訪れるだろうその人の作る夕食を思い浮かべてしまい、どうしようもなく寂しくなりました。ベッドの脇で笑ってくれた柔らかい肌のそのひとは、これから魔女の家で騙されるのです。石を使ってでしか何も記すことのできない魔女は、それを大いに悔むのでした。