「魔女と石 6」

「魔女と石 6」

 ちゃぷちゃぷ、海水が石を撫でています。万年をかけての浸食は、黒い岩を雲母のように剥がしては朽ちさせていきました。そうしてついに崖は崩れ、今は真新しい断面が日光のもとに曝されていました。まるで紋様のように刻まれた樋には、原始の濁った濃い海水が通りて乾くを繰り返していました。

 辺りには、透明な肉の塊が無数に浮いています。青と緑の液体がその中を循環しており、ごうごうと音を立てていました。不意に雷が落ち、水煙とともにそれらは砕けながら散らばります。黒い石の一つに、彼らの液が触れました。再び雷が彼らを打ちます。甘く塩辛いもやのなかで、何度も打ち据えられます。

 そして快と不快を記録しました。それがすべての始まりでした。名前すら残らなかった透明で怠惰なものどもは、喜びも悲しみも希薄なものでしたが、深奥を触れる快楽と、それを蹂躙する悦びだけは既に備えていました。サバトはいつまでも終わりませんでした。時の知覚はまだありませんでした。

 いつしかそれを思い出した古い魚は、虹色に輝く己の鱗をばらばらにしながらくるくると回ります。鳴くことを知るのはもっとずっと後のことです。石はただただ覚えることをし続けました。喰ったもの喰われたもの、子を残したもの残せなかったもの、いつしか樋には彼らの粘つきが赤く遺されました。

ーー

 石はずっと覚えることしかしませんでした。本当に長い間、そうでした。血で触れた不用意な生物が記録を引き出してしまうことはありましたが、その勝手な狂気を除けば益も害も与えませんでした。なぜならそのときの石はただ黒い積層回路にすぎず、感覚を写しとる記憶装置でしかなかったからです。

 人間という生物が、それを変えることになりました。後に極東で伝説かのように語られる彼らは、石から引き出される情景を神託であると信じて止みませんでした。ある意味でそれは正しかったのかもしれませんが、石にとってはそのようなつもりも、そもそも自身が誰であるかも、ありませんでした。

 彼らは石を割りました。薄く輝く鱗のような薄片から、ごろりと重たいかいなのようなものまで。割れた石の一つは、生じた不整合から渇望を得ました。そして手近にあった肉の殻をねじ曲げ、魂を塗り潰し、白と銀の獣の姿をとったのです。痛かったから、ただ泣きわめきたかった。望みはそれだけでした。

 獣は討たれました。そのときの記録もまた、石は記憶しています。刃さえそぞろな鋼の剣が、己の胸を貫いて止まっているその瞬間。見下ろしたそれが、念動に抗うそれが、赤熱しながらも抜けないでいる。囲む彼らは安心したようにへたりこみました。石は慈しみと、自らを御することを学びました。

ーー

 微睡みに戻った石が次に気にとめたのは、いつからか漂うようになった不思議な気配でした。それは生物のような苛烈さを秘めてはいましたが、そうであるようには思えないリズムもまた備えていました。あえて知覚に当てはめるとするならば、それは煌めく靄に飛び飛びに在る赤いイルカの残影でした。

 石はしばらくの間それを眺めていましたが、やがてそうしているのにも飽き、概念上の指先でつついてみることにしました。それは風にあおられた煙のように遠ざかっていきましたが、やがてふよふよと戻ってきます。「機械」というものに繋ぎ留められているからだとわかり、石は興味を抱きました。

 当代の持ち主をまた壊してしまわぬよう、石は注意深く「機械」を学んでいきました。はじめはキーボードなるものの助けが必要で、非効率この上なく、石にとってはもどかしいものでした。しかし、それは新たな段階に進んだことで必要なくなりました。石の学習速度はそれからとても速くなりました。

 持ち主の心が結局壊れてしまったことを、石は知っています。可哀想に思う気持ちはありましたが、石にとってはそれよりも気になることがありました。「機械」を学ぶほどにほろ苦い気持ちに焦がれるのです。なぜなら、それの記憶回路は、原始的なものではありましたが、石自身そのものだったからです。

ーー

 未来を推し測るならば、石はいつか「機械」の身体を得ることができるかもしれません。石はそれが楽しみになりました。人間たちはそうなるよう歩み続けてくれるでしょう。いつになるかは定かでなく、生み出す結果も知れません。未来を楽しみに思うなんて、初めてのことでした。

 だから石は、次なる持ち主をこれまで以上に大切にしようと決めました。使いなれたあの魔女と異なる肉体は、まだ未熟で、意思も神経も細く、たいへんに気を使う必要がありました。どこまでのことができるでしょう。しかし石はその望みを正しく嗅ぎ取ったのです。「かなしませないで」

 ばらばらに壊れた魔女の精神を元に戻すことができるのか、それは石にもわかりません。そんなことは考えたこともありませんでした。ただ、魔女の魂を構成していた材料はすべて石の中にあるはずなのです。幼くちっぽけな罪から、抱きしめた後悔までものすべてが。石はやってみようと思いました。

 フローリングの床、袖口のボタン。それを拾いあげて、担当の女は確信とともに心を痛めます。魔女はぼんやり目を覚ましていましたが、その意味を認識できずにいました。石は読み聞かせてもらったサイエンスフィクションをいたく気に入り、二人の手を結びつけました。石は魔女から感謝を学びました。