「魔女と石 7」
担当の娘はとても愛されて育ちました。両親は故あって離婚していましたが、互いに理解はあり、優秀な兄の存在、幼くして与えられた雑居ビルの書店という城、それらが広い視野を与えてくれました。姫たる彼女の世界にかつて嫌いなものなどなく、輝きに満ちた幼年期は本当に素晴らしいものでした。
勉強が嫌いになろうはずもなく、運動が嫌いになろうはずもなく。彼女はあらゆるものに笑いかけていました。そして笑いかけられ、愛らしさを褒められるのです。それは当然のことであって、そこに驕りはありませんでした。きっとあの頃、自分は「完全なる少女」だったのだろうと、彼女は思います。
しかし、それは偽りでした。大学にいたあの年を境に、彼女の周りの世界は曇ってしまいました。己の城であったはずの場所は軽々と奪い去られ、心は安定を欠きました。学問は理解できなくなり、肺臓は言うことを聞かず、人々は離れていくというのに、彼女にそれを引き戻す力はありませんでした。
世間知らずのお嬢様だったと、今は納得しています。けれどそう思えたのも、あの出逢いがあったからでしょう。店仕舞いの翌日、大学の廊下、写真部のゼラチンプリントの前。見つめる冷たい魔女……その流し目は、恋をしたような、そんな熱を秘めていました。こういう人でありたいと、娘は思いました。
ーー
魔女と娘はぎこちなく友達になりました。主導してくれたのは魔女のほうでしたから、仕方のないことです。本の趣味もそれほど近くありませんでしたし、性格も対照的で似つかぬ二人でしたが、それがかえって良かったのかもしれません。娘の周りには、こんな空気をまとう人はいませんでした。
娘から見る魔女は、いつも何かを憎んでいるように見えました。常に誰かを敵視し、及ばない己の無力さを恥じ、今もよくそうするように度々ふて寝をしていました。自分を救えるのは自分だけなのだからと、言い聞かせることもしきりでした。そんななのに、本当は人が好きで好きで堪らないのです。
初めて魔女の小説を読んだときのことはよく覚えています。それはサイエンスフィクションの世界に生き残った老婆が、孫ほども歳の離れた少年と恋に落ちる話でした。幸せにはなれない満ち満ちた諦念の中に、諦めきれないすがるような愛情がありました。そのときから、娘は魔女の「担当」となりました。
魔女と娘はいくらかの関係を結び、いくらかの距離を置きました。「どんなになっても、私は好きだよ」娘はいついかなる時もそう伝えてきました。魔女が笑ったときも、口を尖らせたときも、自棄になって押し倒されたときも。二人はまるで似ていませんでしたが、ないものねだりなところだけは同じでした。
ーー
娘は魔女のためにその生業を選びました。彼女は十分な能力を備えていましたが、それでもその選択肢は易しくありませんでした。彼女は求めに応えるばかりが巧く、本当に自分から何かに取り組んだことなどなかったのです。娘はそれを知り、たどたどしいながら、けれど乗り越えました。
その経験は娘の財産となりました。彼女の周りには自然と人が集まるようになり、将来や幸せを意識するようになりました。そのすべてが魔女のお陰であると、娘は心から感謝しています。売れない作家とその好き勝手を不出来な担当が頭をひねりながら売る、その日々は、本当に素晴らしいものでした。
けれどあるとき、娘は違和感を覚えました。魔女の書いた情景のなかに、魔女以外の何かがいたのです。語りの口振りは紛れもなく魔女のものでしたが、まるで誰か違う人が無理矢理描かせているような、そんな辛い気持ちがしました。それから、魔女は執筆のペースを異常なまでに上げていくことになります。
はじめは恐ろしさもありました。それでも娘は魔女を嫌いになりたくなどありませんでした。だからこう信じることにしたのです。魔女はきっと変わろうとしている、担当の娘自身がそうであったように。担当は、魔女のためにできることを考えました。担当は、そこで、きっと間違えてしまいました。
ーー
獣は気に入りのクッションで目を覚まし、すがりつく娘の頭を撫でました。銀と白の獣と人とが入り雑じったその腕ならば、軽々と損なうこともできたでしょう。「怖くないの」魔女がそう問いかけると、戻ってきたのは嘘でした。二人の繋がっていた精神は、惜しみながらゆっくりと離れていきます。
魔女は手指、滑らかに凹凸する甲を不思議そうに眺めて、己が還ってきたことを悟りました。それを願ったのが目の前の娘であることも知っていました。「知ってた」何を、という言葉は返りません。いつまでも担当の娘が魔女を好いていること、それを信じたこと、石の果たした役割……知っていました。
ほんの少しまで、ひとつの精神だったのですから。今だけは互いに言葉を交わす必要はありませんでした。それがこれからまただんだんと分かれていくことに、魔女はちくりと哀しみを覚えます。担当の娘は、そう考えるだろうな、と言わんばかりの顔で、汗っぽいブラウスを更にぐしゃぐしゃにしました。
これを境に、魔女は石を操る力を多く失いました。彼女の執筆は緩やかとなり、またさほど売れなくもなりました。けれど書きたい物語は増えたのです。迂闊に交じってしまった二人分の思い出話をしながら、好き勝手に書いた本を売る、それは大変なことでした。もちろん、素晴らしいものでした。