「遠からずのねがい」(「準備室」寄稿作品・2010年)
日々の悲しみを紛らわすことなんて、ネットにはできやしない。そう思いながら、いつだって変わらずPCの電源を入れる。
帰宅直後の我が家の空気をストーブで暖めながら、電気ポットで淹れたホットコーヒーで一息付いて、デジタル時計を忌々しげに眺めると、深夜に程近く、日付は変わっていない。けれど、じきに変わるだろう。
完全に日課になってしまっているメールのチェック、ブログの更新、ツイッターでの呟き、メッセンジャーへのログオン、誰かのブログの巡回、行きつけの掲示板のチェックと書き込み、ウェブニュースの購読、動画サイトで流行の動画を閲覧、ソーシャルサービスの確認。どれも最初はふとした思い付きで始めたのに、段々とそれが作業になり、時間を取るようになり、時折苦痛になる。でも、終わらせられない。ネットの向こう側にはどこかに実在する人物がいて、俺と同じように考え、行動し、そして多分、苦痛を感じているからだ。自分には彼らを裏切ることもできないし、それでも苦痛に耐え切れずフェードアウトとフェードインを繰り返しながら、ウェブのそこかしこで明滅している。
自分は、普通だ。そう思っていなければやっていられなくなったのは、いつのころだっただろうか。ウェブの中には、溢れるほどの才能を惜しげもなく披露する輩がごまんといる。聖人のように人々を従えるカリスマも、多くの熱狂的なファンを抱えた絵描きも、歌い手も、物書きも、星の数ほどいる。けれど、自分はそうではないのだ。普通のネットユーザとして、そのカリスマの彗星の尾となって、この姿の見えないネットという社会を構成するしかないのだ。彼らへの憧れを持ちながら、それでも、その領域に達するほどの自負はない。持ってはいけない。多分、耐えられないから。
ネット上の自分は、そんな思考を外には漏らさず、好青年として通っているのだと思う。笑顔の顔文字の後ろで、そんなことを考えているだなんて、誰が想像したいだろう。みんなそうなんだろう、と思う。自分の悩みも、きっと普通なのだろうと思う。
今日もいつもと同じ。趣味の話やネット上の局所的な流行、創作者同士の褒め合いが、延々と続いている。この中から、また、現実世界を侵食するムーブメントが起こるのだろう。知らない人をくすくすと笑い、知っている人だけがにやにやと笑いあうのだろう。ネットに神は幾らでもいて、世は全てこともない。面白いのに、面白いけれど、期待通りで意外性はなかった。
翌日の起床のためには、そろそろ寝なくては差し障りがある。そう思った頃に、ふと、誰かのブログに一つのリンクを見つけた。
「『遠からずのねがい』」
ウェブサイト名は、個人の趣味が端的に表れる。奇抜なものも、そう珍しくはない。けれど、どういう意味なのだろう。遠からずということは、遠くない、つまり近いということだろう。近い願い。近くにある願い。
好奇心。ただそれだけを抱いて、そのサイトへアクセスした。
開いて、思わず目を細める。空に似た透き通るような青の背景のうえに、端的な明朝体の文章が並んでいた。
あなたのためのページだなんて言うと、あの人は、多分怒ったような顔で応えてくれる。
これは終わりを迎えた物語です。
物語開始から***日**時間**分**秒
総物語時間 ***日**時間**分**秒
物語終了から***日**時間**分**秒
ウェブページはそんな記述で始まっていた。読み進めていくと、最初は小説を展示しているページなのかと思ったけれど、どうやらウェブゲームのログを保存したページのようだった。
そのゲームのプレイヤーは、一人一匹の猫を登録する。その猫はプレイヤーの分身で、プレイヤーの持つ全ての知識と『黒い猫の耳を持った女性を連れて行かなければならない』いうたった一つの命令を覚えている。自分がどうしてそこにいるのか、どうやってそこに辿り着いたのか、そもそもなぜ自分が猫なのか、そして命令の詳細や理由、そういったことは一切覚えておらず、登録された猫たちは『ゼロ番』と仮に呼ばれる小屋に前触れもなく現れる。
猫を出現させたプレイヤーには、猫にとっての周りの状況や、行動の選択肢が小説の形で与えられる。その小説をプレイヤーは注意深く読み解き、猫に何をさせるかを決めて、その行動を文章で送信する。送信された内容に基づいて結果が生まれ、状況が進展し、その新たな状況が文章の形で与えられ、物語は続いていく。
これは、メールゲームだとか、プレイバイメールだとか、そんな風に呼ばれるゲームらしい。
このサイトには、既に終わってしまったそのゲーム「遠からずのねがい」、何人もが関わって生まれた物語が、ログとして残されていた。
興味を持った自分は、この話を一番最初から読んでいくことにした。小説は嫌いじゃないし、合わなければ途中でやめてもいい。そんな軽い気持ちで、マウスを動かす。
物語の中で、まず最初に現れたのは黒いオス猫だった。
後に『クロ』と名づけられる彼は、ゼロ番の小屋の中、ベッドの上で横たわる女性に気付いて、その周りをしばらくうろうろと歩いて、彼女を観察するところから始めた。少女は黒い猫耳を生やしていて、起きる様子もなく昏々と眠っている。小さな背格好を更に小さく丸めて眠る彼女は、到底似合わない大きな制服を着ていた。何か夢を見ているのか、時折簡素な唸りをあげては、聞き取れないほど小さな声で何かを呟いていた。
クロは、少女をひとしきり観察した後、興味を失ったのか彼女から離れていった。クロは『ある場所に連れて行かなければならない』のがこの女性についての命令だということは、理解していた。けれど、クロは彼女を起こさないように、そっと小屋の中を見て回った。
小屋の中には貯蔵庫らしきものがあり、幾つかの箱があり、少女の眠るベッドがあり、猫の身ではどうにもならない鉄扉が一つ。外に出るための鉄扉がもう一つ、こっちには都合よく猫用の扉が付いていて、外へ出ることもできた。窓からも見える外の景色は、鬱蒼と茂った木々と木漏れ日が美しかった。
少女が起きるのを、クロはずっと待っていた。周囲について一通りの情報を得た彼は、彼女がいつ起きてもいいように、その枕元でじっと彼女を見つめていた。起こすのが躊躇われたのか、それとも寝ている姿を見ていたかったのか。それはログからは一切わからなかったが、多分そんなところだと思う。
しばらくして、クロの隣に新しい猫が現れる。どこから現れるわけでもなく、空気から溶けて出たかのようにそこに出現したのだ。
二番目の猫は、後に『シロ』と名づけられる真っ白なメス猫だった。シロはじっと待ち続けるクロに対して軽く接触して、クロが微動だにしないのをしばらく不思議そうに眺めた後、少女に近づいて一回だけ鳴き、それから頬を舐めた。シロの中には、もちろん、プレイヤーとして知識が含まれているから、言葉は理解できる。けれど、たとえどれほどの賢さを身に秘めていたとしても、彼らは猫であり、声を掛けることはできない。声を出そうとして、鳴いたようだった。
シロが少しの間舐めて続けていると、少女はぼんやりと起き上がって、反射的にシロを撫でてから、己の置かれている状況に首を捻った。
「……え? 何、猫?」
状況をつかめずにいるらしく、少女は猫をじっと見て怪訝な顔をしていた。
クロは彼女が落ち着くまでその状況を静観しているつもりだったが、一方のシロは、待つつもりはないようだった。少女の裾をくわえて引っ張り、外へと連れて行こうとする。少女はわけもわからずそれに従い、混乱したまま小屋の外へと連れ出されていった。クロは、その後ろをゆっくりと付いていく。
「何なのよ、もう」外まで出てから、やっと少女はシロを振り払った。シロは振り払われたまま理解できないといった風で彼女をじっと見ていたが、しばらくして諦めたのか、再び部屋の中に戻った。シロは多分、彼女を目的地に連れて行こうとしたのだろう。この物語が、猫が彼女を導く物語だと、シロは知っているから。けれど、少女にはそれは伝わらなかった。クロはその一部始終をじっと見ていた。
再び小屋に戻った少女は、小屋の中の家具を見て回った。こんなものがどうしてあるのだろう、という戸惑いの表情を浮かべながら、猫には開けられない幾つかの扉を開けていった。貯蔵庫の中には何週間でも生きられそうなくらいの保存食料のパックが納められていて、並んだ箱の中には彼女のためとしか思えない多くの着替えが用意されていた。その中に、地図も転がっていた。
しばらく反省したようにその様子を眺めていたシロが、開かずの鉄扉に向かい、数回爪を立てる。少女がそれに気付いて近寄るものの、彼女はその扉を開けるつもりはないようだった。シロが懲りずに何度もひっかくと、ようやく彼女は扉に手を伸ばし、
「これを、開けろって言うの……?」
と独り言を呟く。シロがそれに何度も頭を下げて頷くと、少女は驚いた顔でシロを見つめた。
「あんた、もしかして、私の言葉」シロは頷いた。クロもようやく近寄ってきて、頷く。
少女は信じられないような顔で二匹の猫を見ていたが、ようやく観念して、猫に自分の言葉が伝わると認めた。
彼女はそれから、ミェルと名乗った。忘れ物を、持ち主に届けるために、猫扉のないほうの鉄扉からやってきたのだと言う。この部屋に入ったとき、不意に物凄い眠気を感じ、倒れ、気付いたときには猫に囲まれていたのだそうだ。
シロは頷いたり鳴いたりしてそれに応えたが、ミェルは二匹の猫が喋れないことを理解して、残念そうな顔をした。
「言葉はわかるけど、あんた達は喋れないのね。……そっか」
寂しそうな顔を浮かべるミェルに対し、シロは擦り寄って、それを慰めた。クロは、その様子をじっと見詰めていた。
しばらくして、ミェルは、二匹の猫に名前を付けた。
「あんたは白いから、シロ。あんたは黒いから、クロ。別に良いでしょ」
センスがないことくらいわかってるわ、といわんばかりに、彼女はどうでもよさそうに名付けた。クロが力強く頷いたとき、彼女の顔がわずかに明るくなったことが、丁寧に描写されている。
それから、一人と二匹は、地図を見ながら辺りを散策することにした。森の様子と、近くを流れる川から、すぐに地図はここら辺の地理を示しているとわかった。寸分の曖昧なところもない、正確な地図だった。
小屋の一帯は、森が広がっている。豊かな森で、食べることのできる木の実がそこかしこで見つかり、動物も多い。危険な動物がいる様子もなく、小動物は猫を怖がって近寄らなかったから、とても安全に歩き回ることができた。
「何か、楽園、ね」
ミェルはこの一帯を称して、そう言った。
地図を確かめた一行が小屋まで戻ってくると、そこに二匹の新たな猫が待っていた。
一匹は、虎柄のオスの茶猫で、その風貌から『シマ』と名付けられた。シマはその名前がどうにも気に入らないらしく、ぶすっとした顔でミェルの脚を一発叩いたが、ミェルは自分にセンスのないとわかっていても認めるつもりはないらしく、ぷいとそっぽを向いて命名を押し切ってしまった。
もう一匹は、ずんぐりとしたメスのブチ猫で、当然のように『ブチ』と名付けられた。他の三匹より一回り大きい猫は、その名前を喜んで享受したように見えた。
こうして、一人と四匹の猫が揃ったところで、物語の最初の章は終わる。
言葉の一方通行って、結構あると思う。
すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干して、もう一杯を淹れながら考える。言葉が一方通行でしか通じない関係。もちろん、現実には人間の言葉を完全に理解しつくす猫なんてのはいないけれど、人間同士でも、そういうことって結構あるのだと思う。
シロは、多分凄くいい人だ。猫だけれど。いい人なんだけれど、ついついやりすぎてしまうタイプの人だ。人のことを思っているから、やりすぎてしまったことを深く後悔し、自分が嫌になる。でも、人のことが好きで堪らないから、やっぱり世話を焼いてしまう。悲しいくらいに空回りして、切ないくらいに自分を傷つけて、そんな人。幾つかの知人を思い浮かべた。ブログに定期的に自虐を書いてしまう人。それでもやっぱり、人が好きで、何かに取り組むのが好きで、でもその内容が行き過ぎたのだと勝手に思ってしまう人。
クロは、多分こっちもいい人だと思う。けれど、何にもせずにいて、後悔してしまうタイプの人。シロみたいな人の行動を、冷静に慰めることはできる。けれど、慰めたところで意味があるのかと考えてしまうような人なんだろう。もしかしたら傷つけてしまうだけかもしれない。そう思って、クロは多分、ずっと黙っていた。心の中では、どう思っていたのだろう。じっとシロを見つめるその黒い猫は、何を考えていたのだろう。
二杯目のコーヒーを片手に、次の章へ話を進める。みんな身勝手なんだ。自分も含めて。
次の章は、森と題されていた。
ミェルはブチの希望もあって体格の大きい彼の背中に食料を括りつけ、自分も多少の荷物を持って出かけることにした。地図の中に、行くべき方向が示されていることに気付いたのだ。クロは相変わらずミェルの後ろを黙って付いて歩き、シロとシマは道の先を見ては戻ってきてを繰り返しながら、森の中の道なき道を進んでいった。
地図によれば、森をまっすぐ越えて行けば、その先に何かががあるらしい。地図に書かれた目印には何があるのかはかかれていなかったが、猫たちはミェルにその事実を保証した。この場所に連れて行くことが正しいと、四匹の猫はプレイヤーとして知っていたのだ。
豊かな森を進んでいる間、ミェルと四匹が携帯食料に頼ることはなかった。都合いいくらいにそこかしこに木の実がなっていて、猫でも取ってくることができたからだ。中でもシマは果敢に木の実の収集を行っては、傷だらけで帰ってくることも多かった。ミェルはそのたびに彼の傷に包帯を巻いてやっていたが、そのうち包帯も底を付いてしまう。
シマがどうしてそんなに傷ついてまでミェルに尽くしたのか。それは、シロとの競争関係のためだった。元々先になんでもしてあげようとしては先導を切るシロと、何にでもまず警戒して自分が先に出ようとするシマは、自然と競い合う間柄になっていた。あるときシロが木の実を取ってくれば、シマはその倍の木の実を取ってくるようになった。それに対して、シロは気にする風もなく、再び木の実を取ってくる。その様子がどうしても納得できないのか、シマは更に多くの木の実を持ってこようと努力した。その繰り返しの末、シマはミェルのために多くの食料と水を調達した。彼は先達として危険な崖を降り、そして傷だらけで収穫を持って帰ってきた。
ミェルとブチは二匹を心配しているようだったが、何をしてやることはできなかった。ブチは何度も彼らを諌めたが、シマもシロも、制止を聞くつもりがない程度には、意地っ張りだった。シマが段々傷を増やしていくのを、ブチは堪らなそうに労わっていた。
クロはその様子をじっと眺めつつも、相変わらず大して働くことはなく、ミェルの身を常に見張り続けていた。
シマとシロが多くの木の実を得たお陰で、食料は減るどころか、増えていった。それに伴って、ブチの背中の荷物も増えていった。
最初に異変を感じたのは、一番何もしていないクロだった。常に最後尾を歩いているクロは、三匹と一人の動きを、ずっと観察していた。それだから、まず一番に気付くことができた。
異変は、傷を増やしていくシマが、最近脚を引きずっていることではない。シロが、ミェルと仲良くしていること、それをシマが恨めしそうに睨んでいることでもない。ブチが荷物の重さに耐え切れず、疲れていっていることだった。
ブチはシマとシロの間に立ち、彼らが正面から喧嘩をしないよう、何度だって仲裁をしていた。時にはシマから引っかかれたこともあるし、木の実をぶつけられたこともあった。大きな身体のブチは、最初こそ余裕そうな顔をしていたものの、最近は段々とその余裕をなくしていた。
クロは、ミェルにそれを教えようとした。言葉では伝えられないから、何とかミェルの注意を引き、ブチに注目させる必要がある。クロはこの物語で始めて、ミェルの足元を小突いた。
「どうしたのよ、クロ」
ミェルは意外そうな顔をして立ち止まった。クロは考えた挙句、首を使ってブチの後姿を必死で示した。
「ブチが、どうしたのよ」
彼女の視線は、ずっとブチを見ていたのに、その変化には気付かなかった。もしかすると、猫だからわかる違いだったのかもしれない。ミェルが、実は鈍い娘だったのかもしれない。とにかく、彼女はブチの異変に気付けなかった。クロは落胆して、諦めてしまった。
それからしばらく、そんな生活が長く続いたころ、ようやく森の出口が現れた。ミェルの向かう行く先は木漏れ日ではなく、日光にまっすぐ照らされた草原と砂地が疎らに続いていた。
ブチが、そこでゆっくりと荷物を降ろす。彼女の背負っていた荷物は、その身体よりも大きく、随分と重くなっていた。瑞々しい木の実が幾つか転がり落ちて、シマとシロの足元に転がっていって、それでやっと彼らは異変に気付いた。
「どうしたの、ブチ」とミェルが尋ねても、ブチは何も答えなかった。ただただ、いつものように、のんびりとした顔で留まっていた。
シマが威嚇するように迫っても、実際に引っかいてしまっても。シロが心配そうに慰めても、シマの付けた傷跡を舐めて癒そうとしても。ブチは黙ったまま、その場所に立ち続けた。魂が抜けたように、ずっとそこに立っていた。
「ブチ……」
ミェルが呟いて、眼を伏せた。クロの教えてくれたことを、今になって気付いたのかもしれないが、それはわからない。
ブチは、生きている。そこにいるのだけれど、きっとそれだけなのだ。ブチのプレイヤーはこの物語に飽きて、離れて行った。プレイヤーのいなくなった猫は、いなくなったそのときのまま、物語の世界に立ち続ける。ミェルはそれが理解できないでいたが、他の猫は理解していた。
いつか、ブチは力尽きて倒れるだろう。ミェルはずっとそのときを待ってあげていたが、そのときのことについては、この物語で触れられることはなかった。
森を抜けた一行は、一人と三匹になってしまった。
クロは、その様子をずっと見ていた。
本来倒れるべきでない人が、いつだって倒れる。
自分にも心当たりがあって、嫌な思い出や、そうでもない思い出が幾つか去来する。一番辛い思いをしている人が、真っ先に倒れるとは限らない。でも、一番辛い思いをしているなら、労わってあげなければならない。じゃあ、その労わっている人間は、辛い思いをしていないというのか。そんなことは、ない。
コーヒーばかり飲んでいるのも飽きたので、クッキーを手元に手繰り寄せる。夜中に食べると、多分あんまり良くない。
本当に負担が掛かっていたのは、誰だったんだろう。身を粉にしてミェルに尽くしたシマだろうか。最初から場を引っ張り続けたシロだろうか。二匹の仲裁をし続けたブチだったのだろうか。それとも、誰にも相談できず、それをずっと見ていたクロだろうか。
みんなが、わかっていてやっていたのだ。寂しい結果を望んでいた者は、この中にはいない。ただ少し、それが行き違ってしまっただけで。
クッキーがボロボロとくずれて、膝の上を汚してしまった。綺麗に集めて、ゴミ箱へと捨てる。そういえば、自分は、いつでも、十分に、豊富に、食べ物が得られる。でも彼らは、もしかすると次の日にはそういかなかったかもしれない世界にいたのだ。
荷物を背負い、負担を我慢し続けたブチを責めることはできない。彼女は、最初に希望したんだ。自分が荷物を運ぼうと。
ふと、デジタル時計に目が行った。日付はとうに代わり、夜より朝のほうが近い。この続きは明日にしようかと思いながら、それでも続きを見てしまう。大人としてなっていないなと自嘲しながら、それでもカーソルを次の章へ向かわせる。
本当に無理をしているのは、誰だったのだろう。
三番目の章は、砂漠と題されていた。
草原は段々と砂地に変わり、砂漠へと続いていた。生き物の気配一つ感じない世界が彼らの侵入を拒んでいるようにも見えたが、地図によれば、この地を越えていかねばならない。
森と比べれば、随分と過酷な地。ミェルは、それでも迷う様子がなかった。気遣う三匹の猫に、彼女は語る。
「忘れ物、どうしても届けなきゃいけないの。私は、届けたい」
彼女が何を思ってそれを届けるのか、それは一端でさえ語られなかった。けれど、強い意志だけは示されていた。三匹の猫は、彼女をその地へ導くためにここにいる。彼女を助ける以外に、道はなかった。
砂漠の旅は平易なものではなかったし、想像以上の苦痛を彼らにもたらした。ブチの持っていた多すぎるくらいの木の実は段々と少なくなっていき、かつてブチがいたという形跡さえも、最後の木の実と一緒に消えていった。
食料と水の問題は、ミェルを悩ませた。人と猫、身体の大きい彼女のほうが多く食べ、多く飲まなければならない。しかし、猫が元気でさえあれば、先を見てきてもらうことも、辺りを探してもらうこともできる。木の実の最後を食べ終えた彼女は、これからは食を抑え、三匹の猫に頼ると決めた。
「あんた達には、悪いけど。私がうろうろするより、多分、そのほうがいいから」
苦々しくミェルは言ったが、シマはその言葉を嬉しく思ったようだった。傷だらけの身体は砂で汚れっぱなしで酷い有様だったが、彼は勇ましく先を進み、砂の丘の向こう側を見、幾つものオアシスを見つけだした。
ある夜のことだった。
砂漠の夜は冷えるというが、本来の現実の砂漠ほど、この地の気候は変化する様子はなかった。肌寒い風こそ吹いていたものの、ミェルの着こんだお堅い制服で耐えられる程度のもので、決して生存が困難な環境というわけではなかったのだ。ミェルはこの環境に若干滅入ってはいたものの、健康そのものだった。三匹の猫は、それがゲーム的な都合だと知っている。彼女がここで倒れるはずがないことを知っている。知っているはずなのだが、それを少女に伝える術は、相変わらず、ない。
ミェルが節制しているためとてもこじんまりとしている夕食が終わり、ミェルとシロとクロは一同は身を寄せ合って固まり、眠ることとした。身を寄せ合って眠ることで、少しでもミェルの気持ちをやわらげてあげたいと、二匹は少しでも近くに擦り寄った。
シマは彼らと行動を同じくすることはなく、辺りを探索するためその場を離れていた。
「つまんない話かもしれないけど」
眼を閉じたまま、唐突にミェルはそう切り出し、シロとクロを軽く撫でた。
「私のために頑張ってるんだから、その。私のこと、少しくらい話してもいいでしょ」
自分のことを語るのに慣れていないのか、少女は照れ隠しにクロをくしゃくしゃと撫で回す。
「『ゼロ番』が書かれた小屋、覚えてる? あそこにはもう一つ扉があったでしょ」ミェルは語った。
「その先にはね、私達を閉じ込めていたもう一つの世界があるの。ずっと昔の人が、私達を閉じ込めたらしいんだけど、……言うなれば、牢獄。外に世界があることは知っていたけど、出た人は誰もいなかったし、今も、いないと思う」
「そこに昔、数年前の話よ。ロムっていう馬鹿な男が迷い込んできたの。凄くマヌケな奴でね、私がずっと世話してやったんだ」
「ロムは、その世界とは違う、また別の牢獄から来たんだって。望んできたんじゃなくて、連れ去られて来てしまったって。本当に、マヌケで、ドジな奴だったんだ」
「私とロムはね、『牢獄』から出るための方法をずっと探した。そりゃ、何年も……何百年も出た人がいなかったんだもの、苦労した」
「思い返すと、随分忙しくて、充実した時間だった。ロムってば、あんなんで人使い荒いんだから」
クロが自らの額を軽くこすり、まるで涙を隠すかのように唸り声を上げる。
「結局、見つけたわ。出るための方法は、きちんとあったの。ロムは喜んで出て行ったわ。サヨナラも言ってくれなかった。酷いと思わない? もう二度と逢えないかもしれないのに、アイツは笑って言ったの。声に出さずに、口の形だけで『またな』って」
「ロムの忘れ物は、その後見つけた。アイツの大事にしていた制服」
「最初はそのまま捨ててやろうかと思った。しばらくして、取りに来るかと思って残しておいた。結局来なくて、でも捨てるのも、なんかヤだったし。ずっと持ってたんだけど、でも、なんか、居心地悪くて」
シロは「なう」と鳴いて、その内容を肯定したかのように見えた。猫の言葉を聞き取れない黒猫の耳が、ぴくりと揺れて、それきりだった。言葉は伝わらない。彼女を褒めることも、貶すことも、慰めることも、二匹の猫にはできやしなかった。
「……別に、忘れ物を届けに来ただけよ。届けられなかったら、それでもいいのよ。ダメモトなんだから」
ミェルに撫でられながら、クロはじっと遠くを見ていた。ずっと先、地図に記された目印のある方向。西に沈みかけた月がくっきりと光っている。何を思って、彼は何も鳴かないのだろう。シロがもう一度鳴くのを聞きながら、ミェルと良く似た彼の眼は、ずっと地平線を見ていた。
地平線の上に、小さく、シマがこちらを見ているのを、彼は見ていた。
翌朝、シマは帰ってこなかった。
ミェルとシロは彼を心配し、一帯をうろついて回った。彼の痕跡は一切残っていなかった。砂漠の強い風は砂の丘を波打つように移動させ、波紋を描き、そして人と猫の体力を奪っていく。足跡など残っているはずもなく、匂いは焼け付く砂に紛れ、そして焦りと悲しみは徐々に心を削っていった。
彼女らが必死にシマを探している中、クロは、何もせずにぼんやりと砂漠を見ていた。あの夜、シマが自分を見ていたことを知っていたから、彼がもうこの付近にはいないだろうことを知っていたのだろう。
シマは、心が折れたんだ。そう思う。ミェルのために、それだけのために、自分の身体を省みず尽くしてきた。それは彼の精一杯の愛情表現であり、でも、独りよがりなものでもあった。ミェルはそれを受け取れなかった。彼女が悪いわけではないし、シマが悪いわけでも、もちろんないと思う。彼女にとって猫は何なのだろう。己の姿の一部に良く似た、単なる小動物なのだろうか。旅を助けてくれるパートナーなのか。シマは、ずっとそれを思っていたのかもしれない。
何日も掛けて、ようやく、ミェルは決断を下した。シマは、ここまでなのだ、と。ここから先に、シマを連れて行くことはできないのだ、と。シロは悲しそうに精一杯の鳴き声を張り、その決断を嘆いた。クロは、そういう気分ではなかった。
諦めが場を支配し、ミェルの眼に涙が浮かびかけたとき、クロは、静かに先頭を切った。
ミェルとシロはおずおずとそれに従って歩みを進めた。地図によれば、もう少しで目印の場所に到達するはずなのだ。クロは、何も鳴かず、何も仕草で訴えず、ただ彼女達を連れて先を急いだ。
章が変わった。都市と題された章は、一人と二匹が廃墟の街に辿り着いたところから始まっていた。
コンクリートでくまなく舗装され、灰色の高層ビルが崩れ掛けで立ち並び、かつては美しく街路樹が茂っていただろうその街は、既に土と埃にまみれ、見る影もなかった。ミェルは言うには、これは千年位前の都市がそのままになっているらしい。
千年前の都市は、猫にとっても馴染み深い日本の都市の風景を、色濃く残していた。漢字に程近い奇妙な文字で様々な標識と看板が描かれ、全ての発色が年月によって剥がされ、鉄板の凹みだけが印刷のあったことを教えてくれている。そのことを、猫たちだけが気付いていた。日本に良く似たこの街は、余りにも長い年月を経て、破壊と淘汰、植物の氾濫を許していることを除けば、今そこにある、プレイヤーの住んでいる街に良く似ていた。
地図はどうやらこの街のことを指していたらしい。大雑把に描かれた砂漠を越えるためだけの地図は、街の中では何の役にも立たなかった。ミェルは地図を制服のポケットに仕舞いこんだまま、取り出すことはなかった。
廃墟の街には、誰も住んでいる様子がなかった。小動物が好き勝手に暮らし、木々が鉄筋を支えに生い茂る様子は、どこか牧歌的なものを彼らに感じさせていた。ミェルが語るには、この世界には人間は住むことができないという。
「昔、その昔ね。人間を守るために、機械の兵隊を作ったんだって」
ミェルはどこか嬉しそうにその話を始める。
「私みたいな猫の耳も、鳥の羽も、持ってない『人間』を守るために、人間が作ったの。そう、確か、純血種」
「その人たちにとってすると、私たちは『本当の』人間じゃないんだって。酷い話だと思うわ。だから、私達を『私達の世界』……あの、扉の向こうへ押し込めたのよ。人じゃないけど、人っぽい、私達を」
「彼らは怖かったんだって。私には、想像もできないけど。怖かったって、言ってた」
シロは、その台詞を聞いて警戒した。ミェルが言ったことは、大切なことだと思ったためだ。この世界はあくまでも猫にとってはゲームであり、都合の良い世界だった。それを知っているからこそ、彼女の言った台詞には必ず意味がある。
それからの数日は、張り詰めた空気と共に時間だけが過ぎていった。ミェルはどうしてシロがピリピリしているのかわからず、戸惑うばかりだったが、猫のほうからそのことを伝える手段は相変わらずなかった。クロは、何も警戒している素振りを見せず、ただミェルのそばをじっと付いてまわっていた。
その機械兵は、あくまでも予想の通り、大きな駆動音を背景に現れた。黒い鉄板とパイプで構成された人型の機械。
兵士はミェルの到着を待っていたのかに、彼女の行く手、車道の真ん中を歩いていた。
ゆっくり動作する機械の兵士に対して、ミェルの対応は機敏だった。最初からそうするつもりと決めていたのだろう。制服のポケットから拳銃を取り出し、プラズマを纏った弾丸を何発も何発も撃ち込んだ。
何回かの再装填を経ても、全ての弾丸は装甲に弾かれて効果を発揮せず、兵士は平然と歩みを進めていた。
「やっぱり無理ね」ミェルはそう吐き捨てて、一行は逃走を図った。機械兵はわずかにスピードを上げ、追跡を始める。
千年前の文明が残した兵器は、さほど速く動いているわけでもないのに、ミェルとの距離を詰めていった。崩れかけたビルの中へ飛び込んでも、ガラクタを投げつけても、物陰に隠れても、何の意味もなかった。歩くくらいの速度で、愚直に、何物も壊すことなく、最短距離でミェルを追いかけていった。
十数分も走ったころ。一行には少なくともそう思えたが、ミェルが息を切らしてへたり込んだのを見て、シロはおもむろに彼女の脚を小突いた。二匹の猫にはまだ体力が残っていたが、猫が人間を背負って走れるわけがない。彼女が止まれば、それで終わりなのだ。二匹の猫には、プレイヤーとしての知識として、兵士に捕まることがゲームオーバーなのだとはわかっていた。
「大丈夫。捕まったって、元通り……死ぬわけじゃないのよ。連れ戻されるだけ。元通りになるだけなんだから。ダメだった、ただそれだけ」
ミェルはそう語ったが、シロはそれを許すことはできなかった。もう一度彼女の脚を叩いた後、クロをじっと見据え、彼が何もする様子がないのを確かめてから、彼らを置いて歩き出す。武器では彼女を逃がすことはできなかった。道具でも彼女を逃がすことはできなかった。なら、もう一つだけ、試してもいいじゃないか。シロはそんなことを、後姿に漂わせているように思えた。
「いいのよ……無茶しないでよ……なんでもないことなんだから」
泣きそうな声を背にして、白い猫は、悠然と機械兵の前に歩いていった。兵士も、猫も、急ぐ様子はない。結果は決まっているからだ。
クロは、ミェルの制服の裾に噛み付いて、彼女を引き起こした。そうすべき猫は、そこにいる。けれど、もうできないのだ。
それから。
それから、ミェルとクロは、必死で逃げ続けた。後ろで何が起こっているのかはちっともわからなかったけれど、そんなこと気にする余裕は、一人と一匹にはなかった。シロは、どうなったのだろう?
気が付けば、ミェルとクロは小さな部屋に逃げ込んでいた。
その部屋は『ゼロ番』に良く似ていた。それと比べれば砂埃で汚く、散らかっていて、大きく印象が違うが、つくりは同じだった。窓の外側はあまりにも無機質な廃墟の光景だし、衣類や食料なんてこれっぽっちもなく、その代わりに、工具や電子部品が散乱していたが。
二つの扉の片方、出入口にだけ猫用の扉が付いているところまで同じ。もう一つが、どこに繋がっているか見当も付かないのも同じ。この状況は、プレイヤーとしての直感と、ナレーションとしての忠告から、クロは最後に確信すべき情報を知った。この場所こそが、目的地だということ。ゲームの終焉が目前だということ。
「ねえ」
ミェルは、切らした息を整えながらクロに尋ねた。
「ここって、もしかして、さ」クロは彼女が言い切るよりも前に、力強く頷いた。
その様子を確かめたミェルは、吸い寄せられるように、また恐れるように、ふらふらと扉に近寄って、開けた。放ったその枠の奥には真っ黒な闇だけがああって、一切の見通しは利かなかった。彼女が恐る恐る手を延ばすと、黒い闇の中に手が滑り込んで見えなくなる。ここから先は、別の世界なのだ。ミェルがかつてこの世界とは違う世界から来たと言っていたことを思い出しながら、クロはそう理解した。ミェルにはいまいちわからないようだった。
クロが近寄り、暗闇に入ろうとすると、鈍い音が響いて入ることは出来なかった。ガラス板のようなものが、クロの身にだけ感じられた。
「クロ?」
ミェルはクロの意外な動きに驚いたものの、彼が暗闇を押すように寄りかかっているのを見て、理解した。
「そっか。クロも、ここまでしか付いてきてくれないんだ」
「ねえ、クロ。アンタ、コレで良かったの?」
闇とそれ以外の境界を撫ぜ、ミェルは言った。
「何で私なんか、手伝ってくれたの? アンタたちは、何だったの?」
振り返った彼女は、こじんまりと座り込むクロを抱きしめて、言葉を続ける。
「ブチだって、シマだって、シロだって、アンタだって……なんで、そうまでして、私を助けるのよ。何の義理もないじゃない」
クロは「なう」と鳴いた。言葉は聞こえても、それに返すための言葉はない。どうして助けたのか、それをどんなに言いたくても、言うことはできない。ゲームだから。助けることが唯一のルールだから。そんなことすらも、言うことはできない。
「なんでアンタたちは、喋れないのよ。言葉わかるんでしょ? 言葉わかるなら、喋ってよ。理由を教えてよ、ねえ」
ずっと気にしていたのだ。クロは再び「なう」と鳴いた。彼女はずっと気にしていた。
「ブチだって、あんなになるまで無理して欲しくなかった」
「シマだって、きっと、私が悪かったんでしょ。知ってるのよ、私は」
「シロは……シロも、私のせいなんだ」
クロは首を振った。それは違う、と伝わると思って、精一杯首を振ったんだ。
でも、彼女はクロを抱きしめたまま、ぎゅっと抱きしめたままで、その動きを見ることはなかった。
「なう」クロはもう少しだけ強く、鳴いた。
唐突に、章は最後の章に移った。
三杯目のコーヒーを飲みながら、程なく訪れるだろう朝を待っている自分に気が付く。今から寝ては、多分朝には起きられそうもない。徹夜とは、また、随分と久しぶりのように思う。
シマも、シロも、いなくなった。彼らはプレイヤーとして精一杯のことをやっていたはずだ。シマだって、戻ってくる選択はできたはずだ。シロも、無理に立ち向かう必要なんてこれっぽっちもなかった。彼らは悩んでいたんだろうか? 彼らの行動は、自傷行為だったんだろうか? プレイヤーでもない自分には、それはわからなかった。現実世界で忙しくなったとか、そんなつまらない理由だったのかもしれない。ただのウサ晴らしだったのかもしれない。想像は幾らでもできるけれど、ネットの闇の彼方にある、誰かという人の形は永遠に照らし上げることはできない。
そんな彼らに囲まれて、ミェルこそが、実は一番悩んでいたのだろうか? 彼女は人間として一番の力を持っていて、彼女のために物語の世界は回っていた。けれど、どんなに言葉を発することができても、猫のことは想像することしかできなかった。猫たちはそれぞれプレイヤーとしての思惑でお互いを理解していたというのに、彼女だけはそうではなかった。人間が動かしているはずの命あるキャラクターを前にして、創作物の彼女だけが、悩んでいたのだろうか。
いや、違う。彼女だけが、なんてそんなことがあるはずはないのだ。悲しみは一方通行にはならない。彼女も、だったというだけだ。
一体、この物語はなんなのだろう。なんだというのだろう?
参加したプレイヤーはことごとく消費され、盛りたてられるべき主役は涙ながらに嘆き、取ってつけたかのような結末への到達。誰も、救われていない。
一体、この物語は、何のために? 最後まで残ったクロでさえ、目の前の女性一人、助けることはできないのだろうか?
「なう」
鳴き声は、通じないと知っていても、何度も、何度も、何度も、無形の言葉は彼女の胸元に注がれた。自分がクロのプレイヤーでも、多分そうする。
猫は言葉を喋ることができない。これはルール。どんなに願っても、それは覆されることのないもの。それがルール。そんなことはわかっているけれど、きっとそうする。
「なう」
無駄なのだ、と警告されるかもしれない。もしかしたら、バッドエンドにされてお終いにされるかもしれない。ミェルが諦めて、扉の向こうへ行けば、それでゲームはお終いなんだ。
でも、それでも、なお、鳴き続けて、続けて、そして。
──思いを伝えたいと、鳴き続けたら?
最終章。
「『ねがい』」
唐突に切り替わった章をそんな風に題した。遠からずのねがいというタイトルから取った、端的な言葉。発せられた言葉としても、端的な言葉だった。
「僕の『ねがい』は」
クロが、喋った。
ルールは、捻じ曲がったのだ。ミェルが驚きに眼を見開き、そして彼を強く抱きしめる。クロが苦しそうにもぞもぞと動き、そして諦めてその身をゆだねた。
「アンタ、喋……」
「僕の『ねがい』は、君の幸せだけ」
そのためなら、何だってできた。言いたいことは、山ほどあった。けれど言えないから、言うことができないから、何でもやってあげようとした。
「はじめて逢ったとき、君は寝ていたよね。その寝顔があまりに可愛くて、ずっと見ていた。起こしてしまうのが可哀想で、ずっと待っていた」
表情は浮かべられなくとも。言葉を発することはできなくとも。純然たる思いを、どうしても形にしたくて、ただじっと君を見ていた。
「ずっと君を見ていた。色んな悲しみの中でも、君が無理をしていること。僕らを大切に思っていることは、わかっていた」
「だからもっと好きになった。僕は、君のためだけに生まれたキャラクターだけれど」
キャラクターだけれど、この世界からすれば、異物なのかもしれないけれど、
「君には、幸せになってもらいたいって、心から思うようになった」
ミェルは、答えない。答えなんてなくたっていいから、気にしなかった。
「僕はどこまでも消費され尽くしたって、僕自身が消えてしまっても、大丈夫だから。シロも、シマも、ブチも、みんな、そう。君のために生まれたけれど、君が好きだから、本当に君が好きだから」
「僕のことは気にしないで、幸せになってよ。ミェル」
物語の中の人に、これほどまでに入れ込んでしまうなんて。夢見がちだと言われるだろう。それでもいい。それでもいいから。
「君の行く先には、きっと、君を幸せにしてくれる人が待っているんだよね」
制服に頬を寄せ、クロは言った。この『忘れ物』の話をしているとき、あんなに嬉しそうな顔をしていたじゃないか。
「行きなよ」
ぴくりと、ミェルの黒猫の耳が動いた。クロの耳に、とても良く似ている。
「最後の最後に、なんで喋るのよ、アンタ」
彼女は目元をぐしぐしと拭った後、赤い眼をしてクロの顔を睨みつけた。
「アンタ、見てるばっかりでちっとも役に立たなかったじゃない。そんな奴が、最後の最後でこんなこと言うなんて」
「それでこそ、ミェルだ」
クロは猫の形の許す限り、可能な限りでニヒルに笑ったつもりだった。
「でも、ずっと付いてきてくれた。だから許してあげる」
ミェルは言う。
「最初からアンタのことは気になってたのよ。何か良くわからないしうろうろしてるし、でも、何か、こう、私と他人の気もしないっていうか。やっぱり黒猫仲間だったからなのかしら」
泣き腫らした眼のまま、ミェルは誤魔化すようにそんなことを口走る。
「アンタ、ちょっとだけ、アイツに似てるわ。『忘れ物』した、あの馬鹿に」
「……そっか」
クロを置いて、彼女は笑った。
ミェルを助けたいと、願っていた人がいたんだ。そして、多分、その人が、僕らを生んだ。
「結局、今も昔も、欲しいものなんてそんな遠くなかった。……気付くの、遅かったけどね」
「『遠からずのねがい』」
「なにそれ」
でも、
「うん。気に入った。有難う、クロ。……その、またね」
あなたのためのページだなんて言うと、あの人は、多分怒ったような顔で応えてくれる。
これは終わりを迎えた物語です。
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