「遠からずのねだり」

「遠からずのねだり」(「準備室」寄稿作品・2009年)

 天気予報が、当たらないこともあるって知ったのはいつの話だっただろう。明日の天気なんてずっと昔から決められているものだ。家でも教室でもそう教わったし、でもそれはこの新世界だけの話で、旧世界では明日の天気さえもわからなかったんだそうだ。旧世界では、空の管理者権限もなしに、大気の流動によって天気の移り変わりが実現していたという。大気というものは余りにも状態数が多すぎて、結局人間はその全てを解析することは出来なかった。それでも彼らは明日の天気が知りたかったから、ちっぽけな経験から明日の天気を占っていたのだ。端末はいう。
 空。向こうの山までずっと続く水田と、規則的に続く畦。白茶けた足元の雑草が、空の青に染まっている。第一プレーン623エリア東部農地区画、通称ハーヴェストは、今、秋。透き通った気持ちのいい空気が、肺に入ると、ちょっと冷たい。
 明日も晴れる。明日も、涼しい空気は変わらずにここにある。端末に寄れば、この区画では七十三年誤報なしで天気を実現しているとのこと。だから、晴れる。旧世界にいた頃の私達は、晴れるとも知れない明日を、どんな風に見つめていたのだろう。そんなことは、端末にはちっとも書いてはいない。
 私は端末の位置情報を頼ることなく、畦道を辿って、その小屋へと向かう。道のりは複雑だけれど、胸の痛くなる拡張記憶なんて使う必要はない。何てこともなく、覚えてしまっていた。
 水田の並びが終わり、山へ雑木林が続くのみとなったエリアの片隅、細く鋭い野草の茂みの中に小屋は埋もれている。灰色の金属で組み上げられたそれは、私以外の誰にも省みられることがないというのに、傷付く様子一つない。
 この灰色の小屋は、プレーン同士を移動するための、たった一つの手段だ。永遠に続くかのように思えるこの空の、より高いところに上層のプレーンはあるという。この水田の下、モグラがどんなに掘っても行き当たらない地面と地殻の彼方に、下層のプレーンはあるという。この小屋は、どんな物理的手法でも辿り着けないその空間を、ちょっとした階段一つで、上下に繋いでいる。
 小屋の中身は、至って簡単だ。「上り小屋」に入れば、真正面に十四段の上り階段があって、踊り場でくるっと踵を返す。もう十四段上れば、目の前には眩しい出口。上層のプレーン、つまりナンバーの一つ少ないプレーンの「下り小屋」から出てくることになる。
 灰色の小屋はプレーンのいたるところに建っていて、大体は街の中心部にある。小屋そのものが交通の要所で、気候の違うプレーン同士の交易の場でもあるのだから、自然と周りに人が集まっていったんだそうだ。ある人は新天地を求めて。ある人は莫大な富を求めて。ある砂漠のプレーンでは、水の豊かなプレーンと繋がる小屋を、殺しあってまで奪い合うという。
 けれど、この小屋は、誰にも省みられることがない。私は上向きの三角形が描かれた戸をゆっくりと開ける。ここは、第一プレーンの上り階段。第零プレーンなんてものは、冗談と酔っ払いの戯言の中にしかない。図書館の情報を信じるなら、この小屋こそが新世界の果ての一つであり、旧世界への入口の一つでもあるという。
 旧世界へ続くこの小屋は、他の小屋とは違って物置のようだ。制御盤と、その操作に使っていたのか据付の椅子、工具が詰められた大きな箱、私が片付けたゴミ箱、それと行く手を塞ぐシャッター。制御盤を操作することでシャッターが開き、その先は、旧世界へ続く。しかしながら、当の制御盤は、パスワードを要求してくるどころか、微動だにしない。長い年月の末に、壊れてしまったのだろう。
 壊れているなら、かえって好都合だ。私は制御盤を机代わりに荷物を降ろして、椅子についた。最初に来たときに埃は叩いたけれど、まだ十分砂が染み込んでいて、ざらざらしている。でも椅子のクッションは劣化することなく、柔らかいままだ。
 私は荷物から端末を取り出し、項目の一覧をざっと眺める。歴史、文学、音楽、映画。古典から値札つきの新作までの、無意味にも思えるタイトルが並ぶ。一々途中まで眺めたけれど、面倒臭くなって適当に選ぶことにした。数秒の静寂のあと、前奏が始まる。
 音楽だ。私はそんなつまらないことを思った。聞いたことある。曲名は思い出せないけれど、知っているはずだ。端末を見るのも面倒臭い。椅子の背に深く寄りかかって目を瞑った。確か、旧世界を歌った民謡のカバーだ。どこか物悲しいに乗せて、ついぞ辿り着けないその場所について甘く語り始める。
 遠くを語る歌、愛を語る歌、失った人を語る歌、古いものを懐かしく思う歌、そういうのは、世にありふれている。みんなつまらない。でも、そう感じる自分自身が、何か寂しい人間にも思える。それもつまらない。当たり前のことだとはわかっている。見ていないのだから。生きていないのだから。それでも大人たちは、私の前で平気で昔話をして、私はそれを愛想笑いで聞いている。そのことがどれほどまでに残酷なことか。大人も、私も。
 私は手を精一杯伸ばして端末を取り、音量を一段階下げた。止めても良かったけれど、止めたところで何を流す当てもない。どうせ、数分で曲なんて終わってしまって、次の曲へ進むんだ。私は大きく欠伸をしてから瞼を閉じ、小さく本当の欠伸をする。誰が見てるというわけでもないのに、我ながら馬鹿らしい。

 私がうとうとしていると、突然キュルキュルと新雪を踏み固めるような音が聞こえてきた。端末の調子が狂ったのか、ついに私の耳がおかしくなったのか。そう思って眠い目をこすると、私の傍らに、黒い仮面の兵士が立っていた。私の血の気がさあっと引くのが、聞こえなくなったキュルキュル音の替わりに聞こえた。恐怖と混乱は好奇心とない交ぜになってよくわからないが、まじまじと見てしまって視線が外れない。
「新任管理者として認めても宜しいでしょうか」
 それは極めて古風な共通語だった。言葉の意味はわからなかったが、その発音がスピーカーから出るものだったので、ロボットだと気付いて、何となくほっとした。まるで戦争でもしているように黒い鋼板を鎧兜にして、丈夫そうなパイプを骨に作られたロボット兵だ。けれど武器を持っている様子はなく、替わりに人をしっかり抱えている。ぐったりとしていて顔はよく見えないが、男性のようだった。
「優先処理制限に基づき、認可処理致しました。保護を完了します」
 兵士は抱えていた男を恭しく地面に置いて、いつのまにかに開いていた旧世界への道へ戻っていった。兵士は振り返って進入を拒むように手を広げ、その前をシャッターが下りていく。キュルキュルと音を立てながら。先ほどの音はこれだったのか。
「ん、ぐ」
 私は足元に転がった男性を見て、どうしようか考え込む。私より一回りも二回りも大きい、大人の男性。軍服みたいな見たこともない服の背中から、巨大な白鳥の翼が覗いている。とりあえず死んではいないようだが、無理矢理つれてこられたようで、息が少し荒く、意識が朦朧としているようだった。私は一通り迷った挙句、短銃をポシェットから取り出した。
「大丈夫?」
「あ、……ああ。大、丈夫だ」
 男はそう言ってゆっくり羽ばたいた。私の髪が、風で大きく揺れる。男の共通語は訛りだらけだったけれど、一応言葉は通じているようだ。さっきのロボット兵よりも聞き取りにくいけど。
「あんた、天使でしょ?」
 天使。実際に見るとは思わなかった。旧世界からやってくる人間に似た「何か」。彼らが何で新世界に来るのかはわからないけど、来てすることはただ一つ。
「無様ね。……そんなんで、誰か一人でも殺せるのかしら」
「こ、ろ?」天使は呻いた。
 天使は私達を殺すためだけに降りてくる。だから、時々迷い込む天使を私達は逆に殺してやらなければならない。常識だ。何十年かに一度だけれど、通報された天使が実際に処刑される。
 けれど、私の目の前のこの男は、私一人殺せそうにないくらい、弱っている。さっきの兵士に薬でも打たれたんだろうか、酷く眠そうな顔でこっちを見ている。
「殺すって、何、だ?」
 男はその目をきっと見開いて、その意思だけで身体を起こした。頑丈そうな身体が大きく揺するように震えている。私はちょっとだけ距離を置いた。
「あんた達天使は、私達を殺しに新世界に来るんでしょ」
「そんなことは」そこまで言って、糸が切れたみたいに男は倒れ、寝息を立て始める。
 私は未だに鳴り続いていた端末の曲を聞きながら、この男をどうしてやろうか考える。考えながらも、旧世界を歌う例の民謡が、再び流れていたことに気付いた。
 眠りこけている男を突付いてみたが、起きる様子はない。私はとりあえず彼の手足を縛って動けないようにしてから、彼が目覚めるのを待った。ロープはなかったけど、ちょうど小屋の工具箱に結束バンドがおいてあることを私は知っていた。
 彼の白い翼は、こっそり触れてみると本当に凄く立派なものだとわかった。「鳥の人」の白鳥種とよく似ているが、鳥の人でもここまで美しい真っ白な羽を持ってる人はそういない。彼の着ている服も大層立派なもので、どこかの制服のようだった。胸元には立派なワッペンが縫い付けられていて、旧字で『地表測量挺団』『第三十六番部隊』と書いてある。地表を測量すると言えば、冒険者だろうか。新世界にも冒険者はいる。下層プレーンの果てはまだ見つかっていないそうだが、その中途にはまだあまりにも多くの未開拓のプレーンが残っている。そこを冒険して地図を描き、富を得ようとする者達がいる。それが冒険者だ。大体ならず者だけれど。
 彼が目覚めたのは、それからちょうど一時間経った頃だった。まるでタイマーでもセットされたみたいにぴったりと目覚めた辺り、やはりさっきのロボット兵に何かされたのだろう。あれはきっと、この小屋と同じように古代文明の凄まじい技術の固まりに違いない。相変わらず、無駄に、動いている。
「おはよう、天使さん」私は短銃を見せつけながら言った。入学祝にと、父から押し付けられたものだ。娘の護身用として持たせるにはあまりにも殺傷能力の高い電子銃であることからも、父の過保護っぷりが伝わってくる。いざとなれば、容赦なく殺れということだ。後のことは気にするな、と。残念ながら候補となった眼前の男は、緑色の銃身を見て、周りをちらちらを見て、自分の状況を確認して、それから諦めたように息をついた。
「ここは、『土の楽園』の中なのか……君は、『地下の人』か」
「地下の人? 天使は私達をそう言うの?」
「天使?」男はそう言って羽ばたいてから、
「成る程……確かに、天使に見えなくもない、な。柄じゃないが」と一人で苦笑し、納得した。
「見えなくもない、って。あんた、旧世界から来たでしょ。天使じゃないの」
 なんだかかみ合ってない。私は苛立ちを覚えて、銃口を男に向けた。可能な限りやってはいけないことだと教えられてきたこと。でもいざと言うときには躊躇せずにやれと教わったことだ。男の命を手玉に取った感覚を、不思議に快楽と感じる。
「旧世界、そこから来たあんたは天使。天使は私達を殺すの……だから、その前に殺すのよ」
「旧世界とは、地表のことか」
 私は頷いて見せたけれど、実際はよくわかっていなかった。プレーンの大地のことを地表とも言うけれど、旧世界のことも地表って言うんだろうか。多分、言うんだと思う。
「俺の知ってる天使とは、違う意味なんだな。俺が、天使か。俺は君たちを殺さないし、傷つけない。少なくとも、したくないと思っている」
 私は眉をひそめた。彼の言ってる台詞に、嘘っぽさはない。天使は、精神を狂気で埋め尽くされた殺人鬼。かつて私達の祖先が旧世界から新世界へと逃れたとき、荒廃しきった旧世界に固執した人々は、徐々に精神をやられていったのだという。でも、この目の前の男はどうしてもそんな風には見えない。私が一旦銃口を反らすと、彼はほっとしたように息を吐いた。
「本当に? あんた……悪い奴じゃないの?」
「ああ。信じて欲しい。太陽に誓って、嘘はつかない」
 私の知らない言い回しだった。私は銃をポシェットに仕舞いこみながら、
「太陽?」と尋ねる。
「地下の人には、通じないか……すまない。宇宙にある、地球、この星に最も近い恒星の名前だ。俺たちはその星を神様みたいに思ってる」
 宇宙と、この男は確かに言った。旧世界では空に一番天辺があって、そこから先は宇宙とかいう何か訳のわからないものがずっと続いていると、古い情報に書いてあったのを思い出す。
「そ」私はそっけなくそう言ったけれど、内心では胸が高鳴っているのを抑えていた。宇宙の話なんて、普通は大人だって知らない。私だって、知ろうと思って知ったことじゃないんだから。そんなことを平然と言うこの人は、本当に旧世界から来たんだ。私達がどんなに頑張っても行くことのできないところから、一人こっちの世界へ来た。
「あんたのこと、少し、信じたげる」
 私は彼の手足を縛る結束バンドに手をかけて、正確な動作でバンドに指示を与えた。知恵の輪みたいにするりと抜けて、彼の足の拘束が解けた。苦手な人は鋏を使うけれど、得意な私にとっては必要ない。
「手だけね。とりあえず」男の足を束ねたコードを一度叩いて、
「まだ、完全に信じたわけじゃないの。でも、面白そうだから、あんた」
 男はその言葉に残念そうな顔をしてから、笑顔を作ってぺこりと頭を下げた。私は急につかまれたりしないか一応警戒していたけれど、その心配はないようだった。
「ありがとう、……ええと地下の人」
「地下の人ってモグラみたいな言い方ね。私はカーミェルよ。あなたは?」
 私は黒猫の耳を動かして見せつける。『猫の人』を示すカー、私の名前がミェル。猫の人であることを印象付けるための普段の行動が、癖となって出てしまった。媚を売っているみたいで嫌いだけど、よく間違えられるのだし、念を押すくらいは許して欲しい。けれど、そうやって不意に出た行動も、この人には伝わらないようだった。旧世界に猫の人はいないのだろうか。
「ありがとう、カーミェル。俺はロム。地表測量挺団第三十六番部隊の隊長をしている」その男、ロムは誇らしげに言って、こう付け加えた。
「と言ってもわからないか」
 もちろん何のことだかさっぱりわからなくて、私は口を尖らせる。
「そのワッペンの?」
「そうだな。地表測量挺団というのは、飛行船で地表の形と人類保護機構の情勢を偵察する部隊のことなんだ。共和国でもエリートなんだよ、一応ね」
 人類保護機構? 共和国、は多分向こうの国の略称だろう。新世界にも共和国は幾つもあるから、改めて聞くまでもない。
「何だか、よくわからないわ」
「人類保護機構くらいは知ってるだろう?」
「聞いたこともないわ。何か私達を保護してくれそうな名前ね」
 私の言葉を聴いて、ロムは眼を丸くした。信じられない、といった面持ちで私を見つめ、
「君達をこの『地下』に押し込めた、彼らを……君は知らないのか!」
「閉じ込めた? 何よそれ」
 この男は、私ですら知っている歴史を知らないらしい。私は説明しようとして、ちょっと考える。こんなことなら、歴史の授業をもう少し注意深く聞いておくんだった。確か先生の語っていたところに寄れば、
「私達は、自分からこの新世界に引っ越してきたのよ。旧世界が荒れ果てて、毒ガス、だっけ。何か、人間がまともに住めない環境になってしまったの。それで、私達の御先祖様はこの新世界を作り、避難してきたの。再び旧世界に戻れる日のために、ね」
 私の説明にロムは難しそうな顔をしていた。私達は旧世界に戻るつもりだった。しかしながら、それは叶わなかった。戻るための技術は、不慮の事故、火災によって失われてしまった。それ以来、この小屋は用なし。お陰で私は助かってるけど。
「それは、きっと……」彼は重々しく口を開いた。
「なんだって言うのよ」
「きっと、嘘なんだと思う。俺が習った歴史が、正しいのであれば」
 今度は、私が眼を丸くする番だった。学校で嘘を教えているとロムは言う。
「ちょっと、それ、どういうことよ」
「俺たち、『空の楽園』の民が習っている歴史に寄れば、カーミェル、君たちは閉じ込められたんだ。千年前に、人類保護機構の暴走によって」
 ロムは言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。
「俺たち人間の祖先は、君みたいな猫の因子も、俺みたいな鳥の因子も持ってはいなかった。人間の、純血種」
 私は頷いた。私も知っている。新世界でも時々「どの獣でもない子」が生まれるのだ。彼らの親は勿論普通だし、その子もどちらかの親の因子を受け継いでいる。しかし、稀にその因子を発現させないまま成長してしまったのが、その「どの獣でもない子」だ。プレーンや国によって聖なるものとして崇めたり、悪魔の子と蔑んだりするが、かつての人間がこのような姿であったのだということは、皆知っている。
「純血種は地表、君の言う旧世界一面に栄えていた。だが、ある時期を境に、因子を持った子供が生まれ始めたという。病気のせいであるとか、ある種の進化であったとか、宇宙人に寄生されたのだとか、様々な説があるが、今となってはわからない」
 ロムはそこで一旦話を打ち切り、次どう説明すべきか考えているようだった。私は唾を一旦飲み込んで、それから耳を動かして、ジト目で睨んで、でも黙って待った。
「人類保護機構は、そんな因子持ちから純血種を保護するための秘密結社だったそうだ。純血種だけで構成されていた彼らは、国と地域を跨いで秘密裏に結託してできた集団で、その技術力と財力によって、機械兵団を作り上げ、始動させた」
「機械、兵」私は言葉を舌の上で転がした。さっきのロボット兵が、そうなのだろうか?
「その機械兵は、兵士だけれど人間らしきものは決して殺さないように作られている。けれど、純血種以外の人間は捕獲し、専用の隔離施設に強制収用するように作られている。隔離施設、つまり、君たちの言う、その」
 何となく話の流れがつかめてきたが、それってつまり、
「新世界ね? ここは、そのために作られた施設だっていうの?」
 私の問い掛けに、ロムは重々しく頷いた。
「ああ。この地下は、かつて人間だったものへのせめてもの餞として、無限に続く豊かな大地として構築された『土の楽園』だと、俺は聞いている」
「楽園? こんなとこが、楽園なの?」私はそう吐き捨てた。不便な暮らし、頭の固い大人、そして私。こんなのがいるところが、楽園のはずないじゃない。
「まあ、いいわ。面白い話ね。よくできてると思うけれど……私には、ううん。私の習った話が本当で、あんたの話が嘘かもしれないじゃない」
 ロムのしてくれた話は、間違ってるような気はしない。けれど、私の知っている歴史もまた間違ってるような気はしない。普通なら、初めて会った男の人の話なんて信じてあげないけど、ああ、何て歴史って当てにならないものなんだろう。物証一つ残ってないなんて。これだから歴史は嫌いだ。今までよりもっと嫌いになりそうだ。
「そうだな。俺もよくわからないよ。俺は歴史学者じゃないし、考古学者でもないし、この目で見てきたわけでもすらないからな」
 なんとも無責任な物言いをして、ロムは苦笑いを浮かべる。大人だな、とぼんやり思う。
「まあいいわ。ちょっとだけ信じたげる。私、さっきそのロボット兵、見ちゃったし」
 私はちょっとだけ譲歩のつもりで付け加えた。見てしまったものは仕方ない、と思うし。あれが私達を外の毒ガスから保護してるロボットなのかもしれないけど。何一つ確証はない。
「ありがとう」
 私の打算を気にする様子もなく、ロムは無邪気そうに笑った。何て人懐っこい大人だろう。
「この話にはまだ少し続きがあって。人類保護機構が君達の御先祖様を大体捕まえてしまった頃に、地表には文明性の毒ガスが蔓延してしまったそうだ。君の話ととてもよく似ていると思うけれど……そこで、俺たちの先祖は、空に『楽園』を作り、地表が再び住めるところになるまで、待つことにした」
「そっくりな話ね。本当に」
「そうだな。空の楽園に住んでいた俺たちの祖先は、最初は皆純血種のはずだった。けれど、その中にも因子を発現させた人が現れ、増え続けた。じきに、純血種はいなくなってしまった」
 ロムは大きく羽ばたいてから、その翼を大きく広げた。
「それから何百年、千年近くも時間が経って、ここ数十年で、やっと地表に住めるようになった。けれど、そこには機械兵がまだ動いていたんだ。彼らは未だに純血種の人間のため、因子持ちをこの土の楽園に運び込もうと探索を続けている。純血種の人間なんて、もうどこにもいないんだけれどね」
「ってことは、旧世界の、あんたの言う地表にはもう誰もいないの?」
 私の問いに、ロムは少し考えてから言った。
「いるかもしれないし、いないかもしれない。人類保護機構は、古代文明の技術の中で比べても、酷く高性能なロボットでね、地表の全域を、くまなく占領しつくしているんだ。まともな生活を送っていては、恐らく見つかってしまうだろう。いるとすれば」
 彼はそこで一旦言葉を区切り、「純血種の末裔か」と付け加える。
「俺たちは人類保護機構を止めるために、そういったものを探しているんだ。もしも純血種が一人でも見つかれば、ただ人類保護機構の心臓部に行ってきて、止めてくれるだけでいいから。そして、地表を俺たちの手に取り戻す。先はまだまだ長いけど」
「へえ」と私が関心なさそうに唸ると、ロムは残念そうな顔をした。
「まあ、もっとも、そのためには……早く帰りたいんだけれど」
「帰れないわよ」
 私は端的に答えた。ロムは顔をしかめた。「本当に、出られないのか?」
「本当、多分。旧世界の入口は、ここの他にも幾つかあるみたいだけど……出るために開いたことなんて、一度も聞いたことないわ。出た人もいない。挑戦した人は、結構いたみたいだけどね。今はそれもいない」
「いや、しかし……」
「そもそも、あんたの話が正しいならさ。ここ、私達を閉じ込めてるんでしょ? 出られるように作るはず、ないじゃない」
 ロムは私の言葉に反論しようとして、何とか言葉を捜しているようだったが、しばらくして息をついて諸手を挙げた。
「何か、何かきっと出るための手段が……あると、いいんだが」
 私はロムから視線を反らした。悲しそうな顔をしている大人って、何か嫌いだ。わめき散らすわけでもなく、諦めに満ちている。我侭にやってくれるなら、私だって幾らでも慰めるし、蔑む。けれど、大人はそんなことをさせてくれない。いつでも自分の中に収めて、私が馬鹿みたいに見える。
「探すのも、悪くないんじゃないの」
 自分で言っておきながら、自分で驚いた。何か、やっぱり、馬鹿な子じゃない。私。

 ロムはそれから、こっそりと小屋に住み着いた。ハーヴェストで採れる農産物には結構余裕があるから、生活には困らなかった。といっても、それを届けるのは私の役目だ。彼の訛りたっぷりの言葉はとても目立ってしまうし、こんな田舎では噂もすぐに広まってしまう。私が何か動物を飼っているという噂は聞いたけれど、そのくらいはどうと言う程のことでもない。でも、皆、私が動物を可愛がる姿は想像できないらしい。失礼な話だとも思うけど、ちょっと胸が痛い。
 小屋に篭りっぱなしのロムは、私がいるときは何をする風でもない。小屋の隅っこで端末を動かし、何か技術的な資料を読み耽っている。端末も、その資料も、私が持ってきたものだ。何の資料だかわからないけれど、きっとこの「土の楽園」を出るための研究なんだろう。彼は時々、資料が欲しい、材料が欲しいと私に注文するけれど、食料や衣類が欲しいとは、決して言わない。私が気を利かせてそれらのものを荷物に含めていると、こう言うのだ。
「ありがとう、カーミェル。ごめんな、俺からも何か、してやれるといいんだけど」
 私はそのたびに、
「いいのよ。好きでやってんだから。私、あんたをたった今、殺したっていいのよ」なんて返す。最初の頃は本気にしていたようだったが、最近では「半殺しくらいで、済まないかな」とぼやくくらいまで馴染んでしまった。結局、初めてあった日から、短銃はポシェットの中に入れっぱなしだ。こんなもの、使わないほうがいいに決まっているのだけれど。
 彼の生活は、私に気を使っているのもあるだろうけど、とてもつましい。私が持ってくる褒められた趣味とは思えない地味な服とか、野菜の切れっ端とかにも、不平を言うということがない。人懐っこい彼の性格からすれば、恐らく奇異なこと。茶化すこともせず、ただただ彼は笑って受け入れ続けた。それがどうしてだか、私はわかっている。わかっているはずだ。

(遠い、の意味はここにあって、他のどこにもない)

 ロムが小屋に現れてから、あっという間に半月が経とうとしていた。
 私がいつものように、昼を過ぎた頃に小屋を訪れると、ロムは私を待っていたようだった。彼はいつもは私が使っている鉄の椅子に座り、操作盤をじっと見ていた。
「この小屋、壊れてなんかいなかったんだ」
 ロムは開口一番そう言った。彼とは思えない強い口ぶりと、目の輝きに私は気圧されてしまった。その手には、何だか配線だらけの不恰好な機械がある。ところどころに見覚えがあった。
「そうなの?」私が荷物を置きながら首を捻ると、彼は力強く頷いた。茶化す気にもなれず、私は改まって彼の隣に歩み寄る。
「ちっとも動かないんだ、カーミェルが壊れていると思ってしまうのも、仕方ないことだけれど。俺には、壊れてるとは、どうしても思えなかった。あの人類保護機構も、この土の楽園も、そして空の楽園さえも壊れていないのだから」
 ロムは手元の機械を操作する。不恰好なスイッチが、かちりと音を立てた。よくよく観察してみれば、私の持ってきた材料で作ったものだ。あの良く解らない材料が一体何になるのか、私にはわからなかったけれど、ロムの手によって何だかやっぱりよくわからない機械に結実している。
「この小屋は、土の楽園の入口でもあったけれど、また出口でもあった。管理者の出入り口だったんだ。遠い昔のことだけれど」
 彼の操作に従って、小屋の中に低い稼動音が響き始める。操作盤から響くその音は、しばらくして止まった。その代わりに、操作盤の画面に文字が映りこむ。想像も出来ないくらいの年月を跨いで、今、小屋は動いているんだ。私は肘を抱いて、その年月に思いを馳せる。小屋の中は暖かいはずなのに、私の肘は冷たかった。
「彼らはここを出入りするのに、特殊な端末を鍵の一つとして使っていた。その端末は今どこにあるのかわからないけれど、その資料は残っていた。空の楽園の教育を受けたものでしか、読むことはできなかったのだろうけれど」
 操作盤には、古い時代の言葉で「人間を示せ」とだけ浮かび上がった。あのロボット兵が語っていた共通語のような、旧世界の時代の共通語だった。けれど、どういう意味なのだろうか。
「でも、それだけでは足りないみたいなんだ。恐らくは、何かの符丁だろうと思う。カーミェル、何か心当たりはないか?」
 人間を示せ。と言われても、私は人間だ。示すと言われても、人間だと言い張るくらいのことしかできない。でも、この小屋を建てた人からすれば、純血種ではない私は、人間ではないのかもしれない。そうなれば、ロムもまた、純血種ではない。
「急に、言われてもね」私は答えた。「純血種であること、示さなきゃ……いけないんじゃないの」
 私の推測を聞いてから、ロムはずっと黙ったままだった。自分で言っておいて何なのだけれど、随分と、酷い。私の言ったことは、つまり、
「帰れないのか……?」
 ロムは震える手を操作盤に叩きつける。僅かなエラーの音とともに、操作盤の表示が一瞬だけ揺らいだ。私は彼の問い掛けに答えられなくて、答えるのがあまりに残酷すぎるように思えて、そして彼に掛けられる何一つの言葉が浮かばなかった。そういうときに、私ができることなんて一つしかないんだ。私は彼を置いて、何一つの音も立てないように、小屋を去った。
 私は雑木林の裏道を通って山を抜け、古くからある社をわき目にぼんやりして、また夕暮れ時の畦道をあてどなく歩いた。一つの場所に留まっていると、何か余分な感情に埋め尽くされてしまいそうだった。何も考えないように、ただ目の前の石ころを踏まないように、木切れを踏まないように、歩き続けた。
 どれくらい外で過ごしたのか、ちょっとよく覚えていない。気が付くと、私は図書館の前にいた。小屋から低い丘一つ跨いだところにある図書館。面した水田は、丘を迂回してずっと向こうまで、真っ赤な空色に染まっている。図書館は、ロムの頼みで何度も行った場所。それ以前からも、時々行っていた場所。私は図書館の扉に体重をかけ、ゆっくりとそれを開けた。彼のために何か調べようとか、そんなことを思ったんじゃない。ただ少し休みたかった。
 古びた木造の図書館には、もう既に灯りが点っていた。そこここに置かれた椅子は空席ばかりで、薄暗い書架をうろつく人もいない。省力の張り紙の上の灯りがちらついているのを見ながら、私はカウンターから今日の新聞をもぎ取って、手近な椅子に座り込んだ。推測だらけの歴史。虚構だらけの文学。頭の痛くなる実用書。嫌なことと、あんまり嫌じゃないことを思い出す資料。そのどれをもを選ぶ気がしなかった。
 この図書館は、第二プレーンや第三プレーンにあるような巨大な情報施設ではなくて、こっちはこじんまりとしたおままごとみたいなものだ。第一プレーンは、一番古いプレーンだからこそ、生活には困らないけれど、生活の質はどうしても上がっていかない。永遠に、田舎であることを宿命付けられているかのように。
「ハーヴェスト」新聞をめくりながら、独りごつ。既に意味を知る人なんていないのに、繰り返し伝えられてきた言葉だと、知った。
「豊穣の、里」ともう一度。千年の前の人が、千年の前の異国の言葉で名づけたと、知った。凄く、気持ちのいい言葉だ。心のうちのドロドロしたものが、何もない。誰かの平凡な幸せを願うだけの、素敵な言葉だ。
「もし、そこの」
 最初は、私に掛けられた声だとは思わなかった。返事がどこからも聞こえないので、新聞から視線を外すと、身なりのいい老人が私に微笑んでいた。白猫種の猫の人の男性だが、その毛は年齢の影響なのかボサボサで、綺麗とは言えない。毛先が灯りにちらちら輝いていた。傍らには見事な黒鳥の翼の老婆を連れていて、そちらもまた、嬉しそうに笑っている。
「はあ」私は冷たい顔に敵意を忍ばせながら、応えた。
「どなたでしょう」
「私のことはどうでもいいんだが、君、アレについての情報を集めているんだろう?」
 老人の口調は酷くゆっくりで、歯切れも悪く、私を苛立たせた。私に何を望んでいるんだ、この老人は。
「アレ、って何ですか」
「小屋」私の強い物言いを気にも留めず、老人は茶目っ気たっぷりに笑った。私は新聞を傍らに置いて、老人をじっと見詰める。
「とやかく言うこともないんだが、どうしてもこれを渡したくてな」
 そう言って無理矢理手渡されたのは、一冊のノートだった。今更紙媒体のノートなんて、と思ってめくれば、ページの端から端まで、膨大な言葉の羅列が広がっていた。
「何です、これ」私はそのノートを突っ返そうとしたが、老人は微笑むばかりで、受け取ろうとしない。
「役に立つかもしれんし、役に立たないかもしれん。役に立てることができるかもしれんし、できないのかもしれん。私には役に立たなかったが、君にとってどうだかはわからない」
 老人は不可解な言葉を残して、踵を返した。連れの老婆は付かず離れずにその傍らを歩み、二人は図書館を出て行ってしまった。私は突然のことに唖然とするばかりで、その後姿に何を言うこともできなかった。
 私は仕方なく、好奇心もあって、ノートに目を通す。じきに、文字の羅列が詩だとわかった。曖昧な主語と、曖昧な述語、何を言うでもないのに、心をかき乱す文字列。どこかで聞いたことがある言葉、ありふれた言葉。陳腐な言葉、つまらない言葉。愛しているとか、遥か故郷とか、そんなのばかりが並んでいた。私はノートを持って急ぎ図書館を出たが、老人の姿は既にどこにもなかった。
 ノートを捨てるわけにもいかずに、その手に持ったまま、途方に暮れてしまった。今の老人は、一体なんだったんだろう。私のことを知っていたようだったし、小屋に通っていることを知っていた。大人は嫌いだ。こういうとき、わかっているのに何も教えてくれないから。自分で解きなさい、ということ。
 夕暮れ時だったはずの空は真っ黒に染まっていて、いつもと寸分違わぬ快晴の夜空に、月と星が瞬いている。それらはどこまで飛んでも辿り着けない、私達を照らすためだけに存在するのだと、知った。
「ロム」私は誰にも伝わらないようにそっと呟いて、どこへ行くつもりでもない風をして、小屋に戻ることにした。
 夜だからって、道は暗くない。歩くのに困らない光を齎すまがい物の月は、まがい物だからこそ、とても優しい。畦道の石ころは不器用な私が転ばないように配置されていて、私が道を間違えないように、決まったところに決まったものが置いてある。そんな風に思えた。
 小屋に近づくにつれて、私の耳に歌が聞こえていた。私の耳は、夜、とても冴えている。これほどまでに心の落ち着いた日は、なおさらのことだ。歌の主は、ロムだ。聞いたこともないし、言っている意味も良くわからない。でも、その意図は痛いほどに伝わってくる。彼は、小屋の上に座って、その月をじっと見ていた。
「カーミェル?」
 ロムは、私の姿がよく見えていないようだった。私はその問い掛けには答えず、
「ごめんね」とだけ言った。
「何を謝る必要があるんだい」ロムは溜息混じりに言った。
「カーミェルが謝ることなんて、これっぽっちもないじゃないか」
 私はしばらく何も応えなかった。ロムも、何も聞かなかった。しばらくして、
「何を歌っていたの?」とだけ問いかける。
「ああ。俺の故郷でずっと歌い継がれていた歌でね。地表の美しい自然と、そこに登る太陽と、月のことを歌っているんだ。何千年も、何万年も、ずっと繰り返されたものこそ、美しいと」
 ロムはその翼を広げて、ふわりと小屋を飛び立った。重力に逆らった緩やかな曲線を描いて、私の前に降り立った。
「そんなとこに立ってると、寒いだろ。中に入ろう」
 いつもの通りの人懐っこい笑顔で、ロムは私を小屋の中に導き入れた。操作盤には未だに「人間を示せ」という表示が点っていたが、それを隠すように、彼の作った不恰好な端末と、少ない荷物が乗せられていた。私の胸が少しだけ痛くなる。
「そのノート、どうしたの」
 ロムは目ざとく、私が持て余していたそのノートを見つけ出した。事情をかいつまんで説明すると、彼はそれを楽しそうにめくり始めた。私のことなんて気にしないで、とっても楽しそうで、何よりだけれど、私の胸がもっと痛くなった。
「詩集? へえ、いい暇潰しになりそうだ」とさらにページをめくる。
 しばらく彼は楽しそうにそれを眺めていたが、あるページでその手が止まり、徐々に表情が真剣なものに変わっていった。私がそれに気付いて、身を乗り出すと、彼はやっと気付いたように私に視線を向けた。
「これ、詩集じゃない、と思う」
「え?」私がその言葉にノートを覗きこむと、彼はある一編の詩を指差した。
「これ、俺がさっき歌ってたのと、同じだ。少し、違うところがあるけれど」
 そこに書かれた歌は、旧世界の緑を讃え、その地平から登る神の星と、女神の星を讃え、そして何千年、何万年と繰り返すものこそが美しいという賛歌だった。ロムの歌っていたのと比べれば、語尾や表現は違うような気がしたけれど、確かに良く似ていると思う。
 ロムは、ゆったりとした節をつけて、その一編を読んだ。
「確かに、ぴったり合ってる……?」私は呟いた。ロムの故郷、空の楽園に伝えられた歌が、何でこんなところにもあるのか。
「不思議なこともあるもんだね」
 ロムは気にする風もなく、無邪気に笑った。
「これは詩集じゃなくて、歌集なのかもしれないね」
「楽譜もないのに」
 音楽を記すなら、楽譜がついていないと。言葉を記すのが文字、景色を記すのが絵なら、音を記すのは楽譜。そう思うのだけれど、ロムは頭を振った。
「旋律は、人から聞けばいいんだよ。知ってる曲、ある?」
 私はロムからノートを受け取り、自分の手でパラパラと眺め直してみる。言われて見れば、歌詞として見えなくもないような気がするけど、そう都合よく知っている曲があるとは、到底思えない。それでもめくり続けて、そして見つけた。
「あ」
 私は口に出した後、しまった、と思った。ロムが笑顔でこっちを見ていて、少し恥ずかしくなった。私は、これが歌集だと知らなければ、気付かなかったろう。確か、旧世界について歌っている。曲名は思い出せなかったけれど、
「『遠からずのねだり』」とロムはタイトルを読み上げる。
「うん。知ってるわ、この曲。多分」
 もしかしたら、ロムも覚えているのかもしれない。それは、彼が最初にこの小屋に現れた日、私の気を散らせていたあの民謡だった。好きで掛けていたわけじゃないけれど、何度も聞いてしまった曲。多分、歌えると思うけれど、自信がない。
「どんな曲なんだい?」
「どんな曲って、その、見ての通りよ」私はロムから視線を反らす。彼の言いたいことは十分わかっているつもりだが、それを黙って認めるわけにもいかない。
「聞かないとわからないな。教えて欲しい」
 ずるい。これだから、大人はずるい。私はおずおずとノートを手繰り寄せ、それで顔を覆う。
「ん、もう……わかったわよ……」
 私はゆっくりとノートをおろして息を整え、歌詞をじいっと見つめる。几帳面に書かれた鉛筆の文字は、とても読み易い。私の歌なんて、綺麗なはずがない。この文字を見ているほうが、ずっと心に響くと思う。でも、嘘まで言って、彼を残念がらせるのも、嫌だ。私はおずおずと語るように読み始め、段々と節をつけていく。言葉が歌に近づくにつれて、何だか楽しくなっていく。歌うのなんて、久しぶりだった。でも、ロムがどんな表情でそれを見ているのか、確かめる勇気はなかった。
「素敵な歌だね」
 私はその言葉に赤面したように思う。どこからか、キュルキュルという音が聞こえる。耳障りな音は、私の気持ちを少しだけやわらげてくれた。何の音だろう。私は振り返って、そして、うんともすんとも言わなかったシャッターが、再び、開いているのを見た。
「人間は、心は示された」男の声が響いた。ロムの声じゃない。
「開い、た」ロムは先に気付いていたようだった。信じられないといった面持ちで立ち上がり、そして操作盤の上から端末をどける。私が横から覗き込むと、操作盤にも「人間は示された」と表示されている。
「もしかして、今の歌の中に、符丁が?」
 ロムは私に向き直って、震える手で私の肩を掴んだ。私は思わず身を竦めてしまったが、それから、彼に悪意がないことを読み取った。
「カーミェル! やったんだ……カーミェル!」
 私は何も言えず、ただその嬉しそうな顔に、頷くことしかできなかった。不思議と嬉しくないのは、どうしてだろう。人の不幸を嬉しがる嫌な女だからだろうか、私よ。
 蝿が飛ぶような音がして、私とロムは振り返った。何もない壁に、一人の男が映っている。その男は、初老の純血種だった。汚れて草臥れた白衣を着て、猫背で、酷くみすぼらしい。純血種の映像は、辺りを窺うような仕草を見せて、私達に語り始める。
「私の記憶はここに記録されているが、心はここにはないと、私は信じている。この道を開封した君達は、私を臆病者と謗るだろうか。純血を保ち、記憶を媒体に記録て永遠を望みながら、君達を閉じ込め、偽りの世界に溺れさせ、その未来を奪おうとした私達を」
 操作盤の男は、目を瞑ってぐっと拳を握り締めた。
「恐れていた。ただそれだけだ。私達は、私は、君達が怖かったのだ」
 男の口調はとても冷静だったが、彼の瞳は悲しみに歪んでいた。彼は、きっとこの新世界を作った人たちの一人なんだ。
「明日にも失われるかもしれない生体の身が怖いように、死というものが、いつまでも恐ろしいように。私達人間は、その限られた命で様々なものを残す。それは記憶であったり、文字であったり、遺伝子そのものであったりする。それは希望だ。無限に続く時間と空間の中で、一握り、我々の手に届く唯一の希望、それが『永遠という仮定』」
 男の姿がノイズによって一瞬だけ歪んで、修復される。
「そこに君達は生まれた。このままでは、私達純血の人間はいなくなるだろう。そして、人間というものが、我々が歩んできたこの歴史が、そこに刻まれたあまりに莫大な誰かの記憶の残滓が。祈りが。心を締め付け、眼を緩ませ、唇を震わせるこの『心』が」
 不意に、私の手が、汗ばんでいるのを感じた。隣のロムは、真剣な顔で男の幻影を見ている。
「人類が、君達に代わり、更なるものへと変異し、その原形さえも失い忘れ去られ。私達のやってきたことが、なかったことに、なるのではないか。それが怖かったのだ。人という存在そのものが淘汰され、いなくなること。それが怖かったのだ」
 映し出された男は、ぼんやりとその輪郭を崩していく。
「君達は、愚かな恐れと笑っているだろう。それでいい、それでいいのだ。すべては、過去の人類の愚かなことだったと、笑い飛ばしてくれればいいのだ」
 一際大きなノイズと共に、男の姿は掻き消えた。
「笑いながら、行け、私達の子孫よ。私達の希望よ。心を持った、何者かよ」
 男の声もそれきりで聞こえなくなり、小屋は静かになった。灰色の廊下はずっと向こうまで続いて、遠くに小さく階段らしきものが見えていた。あの先に、旧世界があるのだと、思う。私はロムが何か言うまでじっと待っているつもりだったけど、ロムはいつまで経っても何も言わなかった。彼は、シャッターの開いた先、ずっと続く灰色の廊下を、真剣な眼差しで見ている。
「……ロム。行かないの?」
 痺れを切らした私の言葉に、彼は曖昧な素振りを見せた。なんで。
「ありがとう。行くよ、俺」ロムはそういったが、まだ動かない。シャッターは、いつ閉まるとも知れないのに。
「行きなよ」私は彼の背をそっと押した。けれど、彼の身体は、ちっとも動いてはくれなかった。
「カーミェル」
「何よ」私がぶっきらぼうに返すと、ロムは困ったように笑って、何か得心したようだった。
「なんでもない。なんでもないんだ。今まで有難うな、カーミェル」
 ロムは無邪気に笑い、それから廊下の向こうへ消えていった。
「さよなら」私はその後姿に呟いた。彼は何も言わなかった。その代わり、一度だけ肩越しに振り返って、笑った。
 男の背中が階段にたどり着くよりも前に、シャッターは閉まった。これで小屋の姿は元通り。再び表示の消えた制御盤と、それを操作するための据付の椅子、工具が詰められた大きな箱、ゴミ箱。元通りになった小屋のそこかしこに、誰かが生活した後が残っていた。
 誰かの使っていた工具と、材料の切れ端が、工具箱の隣に山を作っている。ゴミ箱には、生ゴミがちょっと残ったままになっている。その隣に、私の持ってきた地味な着物。私の端末と、予備の端末が、制御盤の上に重ねられている。ノートが、床に落ちている。
 そして、据付の椅子には、どこかの機関の制服の上衣がそのままになっていた。私はそれを椅子から拾い上げ、握り締める。美しい金属ボタンが肌に食い込んで、痛い。
「忘れてるじゃないの」
 私は制服を制御盤に置きなおして、椅子に座り込んだ。酷く静かなのが気にかかって、私は端末を手に取った。項目の一覧が速やかに表示され、歴史、文学、音楽、映画、余りにも膨大なタイトルが羅列する。過去を振り返り、未来を思い描く。無意味で、自己満足なことだ。
 それでも、何か聞きたかった。今は、今だけは。今だけは、静かなところにいたくない。
「『遠からずのねだり』」
 私は一人。応えてくれる人間なんて、小屋のどこにもいやしない。私はロムの残した制服を手繰り寄せて、少しでもぬくもりを探した。私、馬鹿みたいじゃない。ちっとも暖かくないそれを抱きしめまま、私は椅子に深く寄りかかり、眼を閉じる。何か、もう、今日は、いいや。私は思った。
 流れ始めた歌は、私よりも随分と上手かった。当たり前だけれど、私もこれくらい上手かったら、と思う。本当、馬鹿みたいだ。何か言えばよかったんだろうか。何を言えばよかったんだろうか。ロムの無邪気な笑顔が、どうしてもはっきりと思い出せない。さっき別れたばっかりだと言うのに。本当に、馬鹿だ。私。何がしたかったんだろう。何が望みだったんだろう。

 不意に、私は寝息を立てている自分に気が付いた。いつ眠ってしまったのか、どうして自覚があるのか、それはわからない。わかりたくもない。起きる様子もない私は、誰かの残したちっぽけな布切れを安心毛布にして、ただひたすら眠っている。馬鹿な子。その持ち主は、いつか取りに戻ってくるだろうか? それとも、忘れたことにさえ気付かず、幸せに暮らすんだろうか? 眠ったままの私は、その問いに寝息で応える。明日になれば、明日になれば、私はいつも通り。大人なんて嫌いだ……

「帰ってきても、帰ってこなくても、いいわよ、ロム……」