一日、一週、一月。私が戦艦になることはなかった。はっきりとした答を返すこともないまま、夏らしい夏が訪れて、それきりになった。周囲の誰もそのことを触れる人はいなかったし、出入りの噂でいくさのことを聞くこともなかった。新聞には深海棲艦の見出しも躍っていたが、それだけだった。
本当にこのままで良いのか、それを尋ねようと思ったこともある。けれどそれは許されないことのような気がして、踏ん切りが付かなかった。あの黒いこうべ、夜に聞いた爆発の音、探照灯、朝に静かに砕け散ったままの道路と、そこから見えた青い凪。Sの顔と、扶桑さんの憂いと、ちくりとした痛み。
いずれにしても、許されないことなのだ。その頃の私は、風鈴以外の音色を疎ましく思いながら、二階の窓から田園の風景ばかりを見て過ごしていた。砲声も届かない内陸の地に疎開した私たちは、いくさが終わるのをただただ待つのみ。色濃くなりゆく緑は、心を紛らすのにとても心地がよかった。
Sからの手紙が届いたのはその頃のことだった。開け閉めを繰り返してよれよれになった封筒には検閲済の印と署名が重ね書きされていて、幾度もやり取りがあっただろうことが見てとれた。写真が一枚と、便箋が少し。初めて目にした彼女の筆跡は、軽やかだけれどひどく几帳面な気がして、らしいと思った。
写真には、Sがはにかんだ顔で映っていた。艦船との相性が良かったのか、彼女の人相はほとんど変わっていないようだった。故郷に送るための写真として撮ったのか、下ろしたばかりの黒い制服に身を包んで、厚手の布地の前に立って、少しばかり緊張しているのが、よくわかる。青い目で、私を見ている。
手紙のほうに書かれていたのは、どうということのない季節の挨拶ばかり。軍の預かりとなったSには、書けないことも多くできたのだろう。きっと、糧食の味の話とか、軽巡洋艦の先輩の話とか、扶桑さんとの日常とか、書きたかったのだろうなと思う。代わりにSはこう書いた。「僕は、白露型駆逐艦、時雨」
その手紙が届いてからすぐ、あの憂鬱な大いくさが始まった。新聞の伝えるところによれば連戦連勝だったらしいのだけれど、実態はそんなに綺麗なものではなかつただろう。しばらくの膠着と消耗ののち、幾つかの部隊の活躍によって辛うじて切り抜け、そして刺し違えるように掴んだ勝利だ。
凱旋する艦娘たちを報せる写真に、Sの姿は映ってはいなかった。それは彼女が駆逐艦だから、目立たなかっただけかもしれない。もっと華々しい、強大な、例えば戦艦のような艦であったなら、そんなことはなかったのかもしれない。私はそれ以上を見る気がしなくて、その日の新聞はそのままにしている。
戦況がよくなってきた時節だったから、秋には疎開から戻れるだろうなんて相談もしていたのだと思うけれど、今となってはよく覚えていない。その頃の私は、風鈴すらもことごとく叩き割ったのち、ただ緑が深まって、だんだんと色褪せてゆくのを、食事もそぞろに見ていたから。
それから戦況は行ったり来たりして、ままならないものだと思い知らせてくれた。結局、Sが生きているのか、死んでしまったのか、私に確かめる勇気は起こらないまま。ただ言えるのは、私は彼女の手を取り損ねて、きっとフネのようなものに乗り遅れたのだということ、それだけ。
だからこの話は、他でもない私、Yの告白なの。駆逐艦でも戦艦でもない、空母でも巡洋艦でもない、ただの無力でひ弱な娘の告白。恵まれたる時も、そうでない時も、ただ漠然とした不幸の感覚の中に取り残された娘の、取り戻せないたった数日分の思い出話。もしも何かが僅かでもずれていたらという。
でもそんな風にはならなかったし、ならないことをみんなよくわかっていた。Sも、時雨も、私なんかよりずっとよくわかっていたんだと思う。わかっていてなお、私を責めるようなことはしなかった。赦してくれていた。そう……「さよなら、僕の山城」彼女の手紙は、そんな風に結ばれていたから。
終